殺人福岡7

殺人福岡7

福岡高等裁判所/平成17年(う)第399号

主文
本件控訴を棄却する。

理由
第1 本件各公訴事実と公訴提起に至る経緯並びに原審における審理経過及び原判決の概要等
1 本件各公訴事実
(1)平成14年7月2日付け起訴状記載の公訴事実
 
被告人は,平成元年1月25日午後8時ころから午後9時ころまでの間に,佐賀県杵島郡k町内(現在同町は佐賀県武雄市に合併されているが,本判決の地名はすべて原判決言渡時のものである。)の路上に停車中の軽四輪貨物自動車内において,同乗中のA(当時37歳)に対し,殺意をもって,その頸部等を手で絞めるなどし,よって,そのころ,同所において,同女を窒息死させて殺害したものである。
(2)平成14年7月7日付け起訴状記載の公訴事実
 
被告人は,昭和62年7月8日午後10時ころから午後11時ころまでの間に,佐賀県杵島郡k町内の路上に停車中の普通乗用自動車内において,同乗中のB(当時48歳)に対し,殺意をもって,その頸部を手で絞めるなどし,よって,そのころ,同所において,同女を窒息死させて殺害したものである。
(3)平成14年7月30日付け起訴状記載の公訴事実
 
被告人は,昭和63年12月7日午後8時ころ,佐賀県杵島郡k町内の路上に停車中の軽四輪貨物自動車内において,同乗中のC(当時50歳)に対し,殺意をもって,その頸部を手で絞めるなどし,よって,そのころ,同所において,同女を窒息死させて殺害したものである。
〔なお,以下には,上記(1)の公訴事実関係を「A事件」,同(2)の公訴事実関係を「B事件」,同(3)の公訴事実関係を「C事件」と,3件を合わせて「本件各事件」ともいう。〕
2 本件各事件の発生から公訴提起に至る経緯等
(1)佐賀県内の杵島郡k町又は隣接する武雄市内(以下には,単に「k町」,「武雄市」と表記する。)の狭い地域で,昭和62年7月8日からB,昭和63年12月7日からC,平成元年1月25日からAの3名の成人女性が相次いで行方不明となっていたところ,同月27日午後5時35分ころ,たまたま付近を通りがかった夫婦から警察に対して,k町所在の雑木林(以下「本件死体遺棄現場」という。)に死体があるようだとの通報がなされたことを契機に,同所からA,C及びB(以下「Aら」ともいう。)の遺体が次々と発見された。そして,本件死体遺棄現場の状況や遺体の状況などから,同人らに対する殺人事件として捜査が開始されたが,当時のAの交際相手と特徴が一致する男性として捜査線上に浮上したのが被告人であり,その結果,当時佐賀県警察本部刑事部捜査第一課強行犯係長であったD警部補(以下「D」という。)らによって,被告人に対し,同日から同月30日までの間,同県G警察署(以下「G警察署」という。)において,取調べが実施された。被告人は,Aが所在不明となった同月25日の夜の行動に関して供述を変遷させつつも,同女との交際を一切否定し,上記の間の取調べでは,被告人とAとの関係は不明のままで,被告人に対する捜査はそれ以上進展しなかった。
 
その後被告人に対する取調べは中断していたところ,同年10月3日,被告人は,覚せい剤取締法違反(自己使用)の被疑事実で逮捕されて引き続きG警察署の留置場で勾留され,同月24日に同事実で起訴されるに至った。そして,被告人は,同年11月20日にS少年刑務所内の刑事被告人等の収容施設(以下,単に「S少年刑務所」として表記する)に移送されるまでの間,引き続いて同署の留置場で勾留されたが,その間の同年10月26日から同年11月20日までの間,同署において,Dを中心とし,当時上記捜査第一課強行犯主任であったE巡査部長(以下「E」という。)及び同課盗犯主任であったF巡査部長(以下「F」という。)らが主にDの取調べを補助したり,記録したりする側に回るという3名態勢で被告人に対する取調べが再開された。上記移送後の同月29日,起訴されていた覚せい剤取締法違反の事件について判決宣告がされたが,その後の同月30日から同年12月5日までの間にも,上記3名により,S少年刑務所内で被告人に対する取調べが続行された。その後,再び被告人に対する取調べ等の捜査は中断して日時が経過していた。
 
他方,被告人はその後も数度刑事事件を起こして服役を繰り返していたが,K刑務所で服役中のB事件に対する公訴時効の完成が迫った平成14年6月11日,被告人は,A殺害の犯人として急遽逮捕され,同年7月2日,A事件で起訴されるとともに,B殺害の犯人としても逮捕され,同月7日,B事件で起訴され,更に同月9日C殺害の犯人としても逮捕され,同月30日,C事件で起訴された。なお,捜査側が,この時点で急遽被告人に対し強制捜査・起訴に踏み切った背景に,何らかの捜査の進展があったかどうかは記録上不明である。
(2)原審の審理・判決の経過・概要等
 
被告人は,原審第1回公判(平成14年10月22日。なお,以下,本項では,単に,「第1回公判」等と表記する。)において,本件各事件につき,いずれも身に覚えがないと述べてすべて否認した。同公判では,原審検察官ら(以下,本項では,原審検察官らを「検察官」と,原審弁護人らを「弁護人ら」と表記する。)から,本件各事件の証拠として,関係者の供述調書,鑑定書,実況見分調書及び捜査報告書等(原審検甲第1号ないし373号。以下,原審における検察官請求証拠については,単に「甲1」,「乙1」等と表記する。)並びに被告人の供述調書及び上申書等(乙1ないし44)の証拠調請求がされたが,弁護人らは,第2回公判(同年12月3日)における弁護側の冒頭陳述の中で,本件各起訴の不当性,別件覚せい剤取締法違反で起訴された後,引き続き同罪でG警察署に勾留中であった平成元年10月26日から同年11月20日までの同署での被告人(本件との関係では被疑者)に対する取調べ(以下「本件取調べ」という。)の違法性等を主張し,上記の期間内に作成された被告人の上申書の任意性・信用性を争う旨意見を述べるとともに,被告人はいずれの公訴事実についても無罪である旨主張し,本件取調べの間に実況見分が実施された実況見分調書4通(甲187,188,230,273。以下「本件実況見分調書」という。)についての検察官の証拠調請求を不同意とした。その後,検察官から,第6回準備手続(平成15年1月9日)において,平成元年1月30日に作成された被告人の上申書(乙45),同年11月30日に作成された被告人の上申書(乙80,81),本件取調べ期間中に作成された被告人の上申書(乙48,51ないし62,65ないし79)及び警察官調書(乙46,47,49,50,63,64)の,期日外の平成15年11月13日には,本件取調べの期間内である平成元年11月16日及び同月20日の被告人に対する取調状況や同月18日に行われた被告人の引当たり捜査状況等を立証趣旨とするカセットテープ(甲454ないし458。なお,その後,これらについては証拠物として証拠調請求したものであることが,検察官の釈明により明らかにされている。)の,各証拠調請求がされたが,その間の第32回公判(平成15年11月6日)において,弁護人らは,前科関係を除く,被告人の上申書及び警察官調書(乙1ないし28,45ないし81)についての検察官の証拠調請求をいずれも不同意とするとともに,一部の被告人の上申書(乙45)並びに警察官調書(乙1)及び検察官調書(乙29ないし33)を除いた,その余の被告人の上申書及び警察官調書すべてについて任意性を争った。
その後,第36回公判(同年12月25日)において,弁護人らが任意性を争っていた被告人の上申書(乙2ないし28,48,51ないし62,65ないし81)及び警察官調書(乙46,47,49,50,63,64)について,検察官から,被告人の供述経過を立証趣旨とする証拠物としても証拠調請求する旨立証趣旨の追加がされ(証拠能力の判断の用に供するためと思われる。),原審裁判所は,同期日にこれらを証拠物として取り調べた。また,本件実況見分調書についても,第41回公判(平成16年3月4日)において,検察官から刑訴法321条3項による取調請求がされた。
 
その後の第53回公判(同年6月24日)において,検察官から,更に被告人の上申書(乙82ないし93)の証拠調請求がされるとともに,上記カセットテープのうち,平成元年11月16日及び同月18日に録音されたカセットテープ(乙94ないし97)について,被告人の供述内容の真実性(自白)を立証趣旨とするものとして証拠調請求がされたが,弁護人らは,第54回公判(平成16年7月1日)において,それらをすべて不同意とし,乙82,83を除いた被告人の上申書及び警察官調書並びに上記カセットテープ(乙94ないし97)について任意性を争った。原審は,同公判において,カセットテープ(甲454ないし458)を証拠物として採用した上,同公判から第56回公判(同月15日)にかけてこれらを取り調べた。また,同公判において,任意性に争いのない被告人の警察官調書(乙1)及び検察官調書(乙29ないし33)については,刑訴法322条1項書面として,被告人の上申書(乙45)については証拠物として,それぞれ取り調べた。そして,第57回公判(同月29日)において,検察官から,被告人の上申書(乙82ないし93)について,被告人の供述経過を立証趣旨とする証拠物としても証拠調請求する旨立証趣旨の追加がなされた上,被告人の上申書(乙2ないし28,48,51ないし62,65ないし81,84ないし93)及び警察官調書(乙47,49,50,63,64)並びにカセットテープ(乙94ないし97)について,刑訴法322条1項による取調請求がされた。
 
以上の間,原審では,本件の争点である事実関係及び被告人の上申書等の証拠能力についての審理を中心に,捜査官を含む多数証人の尋問と多数回にわたる被告人質問が実施された。そして,原審は,第59回公判(同年9月16日)において,被告人の上申書2通(乙80,81)については,証拠能力を認め,これらを採用して取り調べたが,本件取調べの間に作成された被告人の上申書65通(乙2ないし28、48,51ないし62,65ないし79,84ないし93),警察官調書5通(乙47,49,50,63,64)及びカセットテープ4本(乙94ないし97)〔以下,これらを「本件上申書等」という。〕並びに本件実況見分調書については,それ自体又はいわゆる毒樹の果実の理論により,すべて違法収集証拠であるとして,それらの証拠能力を認めず,また,本件上申書等のうち,少なくとも平成元年11月2日以降G警察署で作成された被告人の上申書等については任意性にも疑いがある旨(なお,検察官の主張を踏まえ,信用性を高めるほどの秘密の暴露が見当たらず,臨場感に乏しい平板な内容のものばかりで,取調官から誘導がなされた可能性もあって,本件上申書等の信用性には疑問があり,少なくとも任意性を裏付けるような高度の信用性はないことをも)指摘して,検察官の証拠調請求をいずれも却下する旨の決定(以下「原決定」という。)をし,これらに対する検察官の異議申立てを棄却した〔なお,検察官は,第63回公判において,被告人の上申書(乙45,82,83)及び警察官調書(乙46)の書証としての証拠調請求を撤回している。〕。
 
その上で,原審は,第66回公判(平成17年5月10日)において判決を宣告し,まず,弁護人らの公訴権濫用の主張については,検察官の公訴提起が,公訴権の濫用として無効となるのは,公訴提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合に限られると解されるところ,本件各公訴の提起はそのような場合に当たらない旨判示し,これを排斥したが,本件各公訴事実につき,証拠関係を詳細に検討した上,本件各事件については,いずれも,被告人が犯人であるとの証明がないとして,被告人に対し無罪を言い渡した。 
第2 控訴趣意に対する判断
1 本件控訴の趣意は,検察官壬生隆明作成名義の控訴趣意書に記載のとおりであり,これに対する答弁は,主任弁護人名和田茂生及び弁護人大倉英士が連名で提出した答弁書に記載のとおりであるから,これらを引用する。
 
本件控訴趣意は,本件上申書等及び本件実況見分調書についての検察官の証拠調請求を却下し,これらに対する検察官の異議申立てを棄却した原審の訴訟手続の法令違反及び原判決の事実誤認を主張するものである。
 
そこで,各論旨について,記録及び証拠物を調査し,当審における事実取調べの結果並びに検察官及び弁護人ら(以下の検察官,弁護人は,前後の内容で自ら明らかな場合を除いて,特に断らない限り,当審の検察官,弁護人を指す。)の各弁論を併せて検討したが,当審も,本件上申書等及び本件実況見分調書の証拠調請求を却下し,これらに対する検察官の異議申立てを棄却した原審の訴訟手続に所論の法令違反はなく,また,本件各事件について,いずれも,被告人が犯人であるとの証明はなされていないとした原判決に誤りはないものとの結論に達した。
 
以下,検察官の各論旨について,順次検討する。
〔なお,弁護人らは,上記答弁書及び弁論の中で,本件各公訴の提起が公訴権を濫用した違法なものである旨主張するが,検察官がした本件各公訴の提起が公訴権を濫用したものと認められないことは,原判決が,「理由」第3で判示するとおりである。弁護人らは,当審弁論において,当審で取り調べた鑑定書等(当審弁第1号ないし4号)に基づき,捜査機関は,平成12年8月までには,被告人がC事件及びA事件当時使用していた軽四輪貨物自動車(以下「被告人車両」という。)の助手席ビニールシートの裏地から採取された尿斑が,AのものでもCのものでもないことについて鑑定結果を得ており,原審検察官もその事実を知りながら,これを隠し,本件各公訴を提起・遂行したものであるから,本件各公訴の提起は違法である旨主張するが,弁護人らが依拠する上記鑑定書等は,被告人車両から採取したと推察されるビニールシートの裏地等から検出されたミトコンドリアDNA型及びACTBP2型と,Aの血液ないしCの爪として送付された鑑定資料のミトコンドリアDNA型及びACTBP2型と一致しなかったというに過ぎず,その事実があるからといって,直ちに検察官の本件各公訴の提起が違法となるものではない。〕
2 訴訟手続の法令違反の主張について
 
論旨は,要するに,原審は,本件取調べに関する違法は,令状主義を潜脱する重大なものであり,将来の違法捜査抑制の必要性も強いとし,また,平成元年11月2日以降の取調べにおいて,被告人には,取調官の意向に沿わなければ食事をとれなくなり,取調べがいつまでも終わらないかもしれないという心理的規制が働いたものと推認される上,本件取調べは取調官から相当の誘導がなされたものと推認できるとし,本件上申書等のうち同日以降の取調べで作成されたものは任意性にも疑いがある旨指摘して,本件上申書等の証拠能力を否定し,さらに,本件実況見分調書についても,上記違法な本件上申書等の内容を前提としているから(毒樹の果実として)証拠能力が認められないとして,本件上申書等及び本件実況見分調書についての検察官の証拠調請求をいずれも却下する旨決定し,これらに対する検察官の異議申立ても棄却したが,本件上申書等及び本件実況見分調書は,いずれも適法な取調べ・捜査によって得られた証拠であり,かつ,被告人の供述は任意になされたものであって,これらの証拠が証拠能力を有することは明白であるから,本件上申書等及び本件実況見分調書の証拠能力を否定して,本件上申書等及び本件実況見分調書についての検察官の証拠調請求をいずれも却下する旨決定し,これらに対する検察官の異議申立てを棄却した原審の訴訟手続には,判決に影響を及ぼすことの明らかな法令違反がある,というのである。
 
しかし,本件上申書等が違法収集証拠であり,また,平成元年11月2日以降に作成された上申書等には任意性にも疑いがあることをも指摘した上,これらの証拠能力を認めず,また,本件上申書等の内容を基にした本件実況見分調書も,いわゆる毒樹の果実として,証拠能力が認められないとした原決定の判断は誤っておらず,検察官の本件上申書等及び本件実況見分調書の証拠調請求を却下し,これらに対する検察官の異議申立ても棄却した原審の訴訟手続に所論の法令違反はない。
 
すなわち,平成元年1月(以下,特に断りのない限り,月日の記載は平成元年である。)の被告人に対する取調状況,本件取調べ前の捜査状況,10月26日から11月20日まで,及び同日移送された後12月5日までの被告人に対する取調状況並びに本件取調べの取調時間の状況等は,原決定が「理由」第2で認定するとおりであり,被告人が本件取調べ時に置かれていた状況については,同第4の2(1)で認定するとおりの事実,及び被告人の取調べに用いられたG警察署第二取調室は,留置場に隣接する間口約195センチメートル,奥行約355センチメートルの狭い部屋であり(なお,関係証拠によれば,被告人は,10月3日覚せい剤取締法違反罪の容疑で逮捕されて以来11月20日S少年刑務所に移送されるまでの間,引き続きG警察署内の留置場内で身柄を拘束されていたが,被告人が入っていた部屋は,上記取調室に近接した独居房で,他の被疑者と接触できないようにされており,その間被告人は,11月18日に上記覚せい剤取締法違反罪で起訴後選任された国選弁護人と初めて接見しただけで,そのほかには外部との接触が一切ないまま,ほとんど孤立化した状態に置かれていた様子もうかがえる。),被告人は,10月26日から11月11日までの間,取調官3名の態勢で連日取調べを受けていた等の事実が認められる。
 
また,本件取調べの状況に関する被告人と取調官らの各供述の要旨は,原決定が「理由」第3の1で摘示するとおりであって,大きく相反しているところ,取調官らの供述は,備忘録(甲464,467。以下には,両者を区別せず,単に「備忘録」と呼称することがある。や被告人の取調メモ」と題するファイル(甲470。)「以下「取調べメモ」という。)の記載内容によって裏付けられている部分が多いとはいえ,備忘録や取調べメモの記載内容,更には所論が取調官らの供述の信用性が高いと主張する論拠の一つであるカセットテープ(甲454ないし458。以下「カセットテープ」という。)の証拠物としての証拠価値にも限界があり,本件取調べ全般にわたって取調官らの供述を信用できるものではなく,他方,被告人の供述には,変遷や誇張がみられるものの,その信用性を一概に排斥することもできないものがあって,本件取調べの状況や態様,被告人の供述状況や本件上申書等の作成経過などについては,個々個別に検討する必要があることは,原決定が「理由」第3の2(1)で指摘するとおりと認められる。そして,本件取調べの際,被告人が寡黙で自発的に発言することは少なく,取調官らの問い掛けにも,黙り込むなどして答えず,答える際にもぼそぼそと小声で話すことが多かったことは,取調官らも認めるところである。その状況は,被告人が自白した内容の上申書を作成した11月11日以降に録音されたカセットテープからある程度うかがわれる。このような被告人に対する同日までの追及が,かなり威迫的なものであったことも,原決定が同第3の2(4)(ア)で指摘する備忘録中の記載や同(イ)中で判示するEの行為から認められる。被告人が,11月11日に,取調官の膝にしがみついて号泣し,Aら殺害(以下「本件各殺人」ともいう。)について自白した,というような状況があったと認めるには,後記のとおり,かなり疑問が残る。また,上申書の作成に,取調官から被告人に対し相当具体的な指示ないし働きかけがあったことが推認できることも,原決定が「理由」第3の2(6)で認定・判示するとおりである。
 
さらに,本件取調べの目的が被告人の自白獲得にあり,本件取調べが,後記のとおり,任意の取調べであって,在宅被疑者に対する任意の取調べに準じ,被告人には取調受忍義務がないと解すべきところ,この点についての捜査当局の意識は極めて低く,他方,被告人においては,本件取調べが任意の取調べであって,取調受忍義務がなく,取調べを拒否できることや取調室から退去できることを知らなかったものと認められることについても,原決定が同第4の1(1)ないし(3)で認定・判示するとおりである。
 
以上の事実関係を踏まえて検討する。
 
被告人は,10月3日,覚せい剤取締法違反(自己使用)の被疑事実で逮捕されて引き続きG警察署の留置場で勾留され,10月24日に同法違反の事実で起訴された(以下,被告人に対する上記覚せい剤取締法違反被告事件を「別件」という。)が,その後も検察官によって刑務所等への移送手続が執られることがないまま,11月20日にS少年刑務所に移送されるまで,引き続きG警察署の留置場に前記のような独居の状態で勾留されていたものであり,検察官が証拠調請求をし,原審がこれを却下した本件上申書等は,いずれもその上記期間内に作成ないし録音されたものである。本件取調べがされた10月26日から11月20日までの期間を含む別件起訴後の被告人に対する上記勾留は,本来別件の公判審理を円滑に遂行するために,被告人の公判への出頭確保等を目的とするものであって,本件取調べは,いわゆる別件の,しかも本件とは全く関係のない覚せい剤取締法違反(自己使用)罪による起訴後勾留中の被告人に対する余罪取調べであるから,被告人(本件各事件との関係では被疑者)に対する取調べとしては,任意の取調べとして,在宅被疑者に対する任意の取調べに準じた取調べのみが許され,被告人には取調受忍義務がないと解すべきである。したがって,G警察署の留置場に,別件の公判審理等のため勾留されていた被告人としては,捜査官側からの本件についての出頭要求(具体的には,出頭要求に応じて取調室に赴くこと)を拒むことができ,また,いったん出頭要求に応じて取調室に入室した後であっても,同所に滞留することを拒否して,留置場に戻すよう要求することができるというべきである(なお,検察官も,被告人に本件取調べの受忍義務があるとは主張していない。)。
 
ところで,原決定が「理由」第2で詳細に認定・判示するとおり,Aらの遺体が発見された1月27日から同月30日までの被告人に対する取調べや本件取調べ前の捜査の過程で判明した事実関係からは,被告人とAとの関係は明確になっておらず,被告人がA事件の犯人であるという嫌疑は逮捕・勾留するに足りるほどのものではなく,その嫌疑が濃厚であったとまでも言い難い状況にあった。また,被告人とB及びCとの関係をうかがわせる具体的な事実や証拠は存せず,B事件及びC事件における被告人に対する嫌疑は,Aの遺体と同じ現場からB及びCの遺体が発見されたことなどから,A事件の犯人が被告人であれば,B事件及びC事件の犯人も被告人である可能性があるという以上のものではなかった。そのような状況の下,本件取調べ開始前日である10月25日の捜査会議では,被告人に対する取調べが午前零時まで行いうることが確認されるなど,被告人に対する取調べが深夜に及ぶことが当然のごとく予定されていた。上記のとおり,1月の時点では,被告人はAとの関係を否定していたのであるから,捜査当局において,被告人が本件取調べが任意の取調べであり,上記のとおりの意味での出頭義務や滞留義務がないことを理解し,あるいは被告人に対しその点の理解に配慮した告知をすることを前提に,取調べを実施する意図を有していたとすれば,上記のような取調べを続けるうちに,被告人において出頭要求や取調室での滞留を拒否することもあり得ることを当然想定して対応を検討したはずであるのに,取調官をはじめとする捜査側証人の証言からは,その点についての検討がされた形跡はうかがえない。のみならず,その会議の席上,「追及事項と自供獲得資料」と題する書面〔甲464(備忘録)中のもの〕が取調官らに配布されてもいる。
 
また,本件取調べの際,主として被告人の取調べに当たったDは,その取調べが開始された10月26日の取調べの当初に,被告人に対し,「今日からRの女性殺人事件で取調べをする。今,覚せい剤で逮捕されとるけれども,これは起訴になった,だから,飽くまでも任意の取調べである。だから,体調が悪いとかなどでどうしても取調べを受けたくないというときは刑事さんに言わんか。」などと,任意という言葉を用いてはいるものの,それに引き続き「だから,体調が悪いとかなどでどうしても取調べを受けたくないというときは刑事さんに言わんか。」などと,その発言内容を素直に理解すれば,通常は,体調が悪いといったような特別な事情(なお,Dが例示として用いている体調不良という事情は,一般に取調受忍義務があると解されている逮捕・勾留の基となった事実についての取調べであっても,その程度等によっては,殊更に取調べを続ければ,その供述の任意性に疑いを抱かせる場合があり得るものであって,取調べを差し控えるのが相当なケースであり,実務の通例でもあると考えられるものである。)がない限り,取調べを受けたくないと取調官に申し出ることができないこと,言い換えれば,原則として取調べに応じる(警察官の要求に応じて取調室に入り,滞留する)義務がある旨告げたと理解されても致し方のない表現を用いた告知をしている。また,Dら取調官の原審証言(以下には「供述」として引用する。)によっても,その後にでも,上記のとおり,「任意の取調べである」と告げたという以上に,被告人に対し,取調受忍義務がなく,取調べを拒否したり,取調室から退出することを求めることができる旨告げたり,具体的に説明したような形跡は一切うかがわれない。さらに,Dらの供述によっても,取調官らの追及に対して,被告人が下を向いて返答しないでいるような場合にはその顎に手をやって取調官の方を向かせたり,被告人が説得に対して耳を貸さない場合には注意を喚起する意味合いで机を叩くこともあったというのであり,同人らの供述からは,そのような振る舞いに及ぶことになんらの抵抗感がなく,このような振る舞いを当然視している取調官らの姿勢すらうかがわれる。
 
そして,本件取調べが,当初から被告人の自白獲得を目的としてなされたものと認められることや,本件取調べの間,被告人が置かれていた状況は前記のとおりである。
 
以上のように,本件取調べは,本件とはまったく関係のない事件で起訴され,引き続きG警察署に起訴後勾留されていた被告人に対し,A事件との関係でもさほど嫌疑が濃厚とまでは言い難く,B事件及びC事件では嫌疑が薄いというほかないような状況のもと,当初から遮二無二自白を獲得する目的でなされたものであり,その取調べの当初には,取調受忍義務のないことを知らなかった被告人に対し,あたかも取調受忍義務があるかのような内容の告知をした上で,本件取調べを開始している。そして,その後行われた実際の取調状況は,原決定が「理由」第2の5で詳細に認定するとおりであって,取調官らは,被告人が別件で起訴された後である10月26日から11月18日までの間連続して(令状に基づく起訴前の勾留期間をも超過した24日間)取調べを続け,殊に被告人が自白した11月11日までの17日間は,10月28日を除いて,1日の取調べ時間が10時間を超え,最長が10月27日の約15時間21分,平均して約12時間35分にも及んでいるだけでなく,うち9日間については,翌日の午前2時35分まで行われた11月10日の取調べを筆頭に,午前零時を過ぎた深夜に及ぶ取調べをしている。また,その間の取調べが,少なくとも,被告人に対し自白を迫る威迫的なものであったと認められることは,前記のとおりである。
 
本件が極めて重大かつ悪質事案であり,被告人を取り調べる必要性も一応肯定されるとしても,以上の事実関係に照らせば,本件取調べは,本来は取調受忍義務のない任意の取調べの限界を超えて,実質的に取調受忍義務を課したに等しいものというほかなく,そのような取調べがなされた背景には,別件勾留中の被告人に対し,取調受忍義務を前提とした取調べをすることが許されるとの捜査当局の誤った理解があったといわざるを得ず,そのような捜査当局の誤解は,備忘録(甲464)中の11月28日欄に,S少年刑務所移送後の被告人に対する取調べに当たって,参事官から,取調官らに「逮捕したという気持ちで取調べ」る旨の指示があった旨の発言が記載されていることからもうかがわれる。
 
しかも,上記のとおり,本件取調べが当初から自白獲得を目的としたものであって,実際にも連日深夜まで長時間に及ぶ取調べを実施し,爾後本件取調べの状況に関する捜査報告書の改ざんをも行うに至っては,将来における違法捜査抑止の観点からしても,本件上申書等に証拠能力を認めることはできず,これらを証拠から排除する必要がある。
 
以上のとおり,本件取調べは,令状主義を甚だしく潜脱する違法性の高い取調べであり,その間に収集された本件上申書等の証拠は,捜査官側の目的に照らしても,将来における違法捜査抑止の観点からして,証拠から排除すべきものというほかなく,これと結論において同旨の原決定に誤りはない。また,上記の諸事実に加え,後記のとおりの11月2日の取調状況等を併せ考慮すると,本件上申書等のうち,少なくとも同日以降に作成されたものについては,任意性にも疑いがあるというべきであるし,原決定が「理由」第4の2(2)で詳細に認定・判示するとおり,本件上申書等は,本件殺人を犯した犯人でなければ供述し得ないような内容が含まれず,迫真性にも乏しいもので,その信用性にも疑問があり,任意性を裏付けるほどの信用性がないことも明らかである。
 
したがって,本件取調べの間に作成された本件上申書等及びこれらを前提とした本件実況見分調書に証拠能力は認められないから,本件上申書等及び本件実況見分調書についての検察官の証拠調請求をいずれも却下し,これらに対する検察官の異議申立てを棄却した原審の訴訟手続に所論の法令違反はない。
 
なお,本件事案の重大性・特殊性等にかんがみ,以下,所論について若干説明を付加する。
(1)所論は,Dは,被告人に対し,本件各事件についての取調べが任意の取調べであるとの告知をした旨供述しており,その供述は信用性が高いから,被告人は取調受忍義務があるとは誤解しておらず,被告人が取調受忍義務があると誤解していたとの原決定は,その前提の事実認定を誤っている旨主張する。
 
しかし,検察官の主張によっても,Dがした「任意の取調べである旨の告知」というものの内容は上記のとおりであるところ,それが被告人の取調受忍義務があるとの誤解を解くものでないばかりか,かえって取調受忍義務があるとの誤解を招きかねないものであることは前記のとおりである。そして,被告人が取調べに応じる義務も,取調室に滞留する義務もないことを理解していなかったと認められることも前記のとおりである。
 
この点,更に所論は,被告人は,10月26日及び同月29日に本件各殺人に関するポリグラフ検査を拒否していることに照らせば,被告人は本件取調べの当初から,その意に反することは拒否できると認識していたと認められるなどとも主張するが,取調受忍義務があると解されている逮捕・勾留の基礎となった事件についても,当該被告人又は被疑者らは,ポリグラフ検査を拒否できるのであって,被告人がポリグラフ検査を拒否した理由が証拠上明らかでない本件において,被告人がポリグラフ検査を拒否したことが,直ちに,被告人が取調べ自体をも拒否できると理解していたことを導くものとはいえない。
 
また,所論は,被告人が,取調べを拒否したり,留置場に帰らせて欲しいと求めたこともなく,これらの事情は,本件取調べが適法であることを裏付ける一事情であるかのように主張するが,上記のとおり,被告人が取調受忍義務があると誤解していたと認められる本件においては,そのような事情でもって,本件取調べの適法性を認めることはできない。
(2)所論は,本件の上申書は,被告人本人が記載内容を考え,文章を構成し,さらに自筆で書面を作成したもので,その性質上,その意に反して作成させることは極めて困難である上,このような性質を有する上申書が多数作成されていることは,それ自体,取調べの適法性,供述の任意性を強く推認させるものである,もともと多数の上申書の作成は捜査本部の方針にもよるものであったことからして,捜査当局が本件取調べにおいて,任意性の確保に十分配慮をしていたことは明らかである旨主張する。
 
しかし,所論からも明らかなとおり,本件で多数の上申書が作成されたのは捜査本部の方針によるものであって,被告人が自発的に上申書の作成を申し出たものではない。また,Dら取調官の供述からは,そのような捜査方針には,捜査手法として上申書を作成させることにより,任意性を争うことを困難にするとともに,ひとたび自白した後には,否認供述への変更を困難にする意図があったことがうかがわれる上,本件上申書の作成状況は前記のとおりである。したがって,このような上申書が多数作成されているからといって,本件取調べの適法性や任意性を推認させるものとはいえない。
 
この点,所論は更に,上申書の作成に当たって取調官による具体的指示,働き掛けがあったとの原審決定の判断は誤っている旨主張するが,Dの供述によっても,上申書は,Dが被告人の供述を一通り聴いた後,聴いた内容を上申書として書くように告げ,被告人が記載したもの,項目立てて聞いた内容を被告人に順次教示し,被告人が上申書に記載したものなどというのであり,上申書の作成に当たって,取調官から被告人に対し相当具体的な指示・働き掛けがあったと認めた原決定に誤りはない。
(3)所論は,備忘録は,F又はEが取調状況をリアルタイムで記載したものであり高い信用性を有し,これを転記した取調べメモの信用性も高いところ,本件の取調官であるD,E及びFの各供述は、詳細で,その内容は終始一貫し,自然かつ合理的で迫真性に富み,備忘録や取調べメモといった客観的資料や本件上申書等にも符合しており,信用性は極めて高く,他方,被告人の公判供述は,原決定も指摘するとおり,変遷や誇張が多く見られる上,極めて不合理な内容の供述が多くあり,信用性は極めて乏しいのに,備忘録(それに基づいて作成された取調べメモも同じ)の証拠価値には限界があり,カセットテープに録音されている取調状況から,本件取調状況全体も同様の状況であったと推認することはできないとし,被告人の供述内容も一概に不自然・不合理とはいえないものであることなどからすると,上記備忘録等の内容を絶対視して,これと符合する取調官らの供述内容の信用性が高いとは一概にはいえない旨判示しているのは不当であるなどと主張した上,上記取調官らの供述等を前提として,本件取調べの状況並びに被告人の供述経緯及び供述内容を認定すべきであると主張して,特に11月2日の取調状況,同月11日に被告人が自白した状況などについての原決定の認定を強く非難している。
 
しかし,備忘録や取調べメモの証拠価値に限度があり,カセットテープから本件取調べ全体が検察官主張のようなものであるとみることができないことは,原決定が,「理由」第3の2(1)で指摘するとおりである。殊に備忘録は,捜査官側が必要と思われる点を記載したもの,取調べメモは,上司の報告用に備忘録の記載を浄書・転記したものである性質上,記載者による恣意性はぬぐい去れないし,連日,平均して12時間半ほども取調べが行われたというのに,上記備忘録中には,「追及」との記載があるのみで,具体的な追及の内容とそれに対する被告人の供述内容や供述態度についての記載がない部分が少なくないなど,その記載内容には,かなりの濃淡がある上,鉛筆書きであり,不自然な空白もある。この点,所論は,原決定が,備忘録が,鉛筆書きという記載方法から加除訂正の可能性も否定できないとの一般的抽象的危険を指摘して,備忘録の証拠価値を限定的なものとしているのは不当であると主張する。しかし,鉛筆書きという記載方法から加除訂正の可能性も否定できないことは確かであり,それ故に,その信用性,Dら取調官の供述を裏付ける証拠としての価値について慎重に検討する必要があるのは当然である。 
 
そして,備忘録には,記載者による恣意性やかなりの濃淡があり,不自然な空白もみれられることに加え,取調べメモ(その基は備忘録)を基に作成された取調状況に関する捜査報告書が改ざんされたことがあることなどをも考慮すると,備忘録やそれを基に作成された取調べメモの証拠価値には限界があるというべきである。
また,自白後に,しかも被告人に対する取調状況等の一部が,録音されたに過ぎないカセットテープから,本件取調べ全体の状況がそれと同様の状況であったとみることができないことも原決定が正しく指摘するとおりである。
 
次に,所論が原決定の認定の不当を強調する重要な節目となった11月2日及び同月11日の取調状況について検討する。
(ア)11月2日の取調状況
 
11月2日の取調べの際,被告人が昼食も夕食もとっておらず,午前10時53分ころに出房してから,翌日午前零時20分ころに入房するまでの間,房に戻ることなくほぼ取調室に滞留していたことは明らかであるところ,所論は,Dは,被告人が昼食を食べていないのを知った際にも,夕食を食べていないのを知った際にも,被告人に対し,留置場に戻って食事をとるように勧め,被告人がこれを断った旨供述しており,その供述の信用性は高いから,被告人が当日,昼食も夕食もとらなかった経緯は,Dの供述どおりと認定すべきであるなどと主張し,当日の取調べにおいて,被告人を留置場に戻さずに取調べを行ったことをもって,Dらが,被告人に取調室滞留義務を課して取調べを行ったと評価できるとした原決定は不当である旨主張する。
 
しかし,かたくなな態度で黙り込むなどして供述を拒否している被告人に対し,供述しやすい雰囲気を作ろうとして,食事を取調室でとるように申し向けること自体,不自然な感はぬぐえず,取調官らの供述によっても,10月25日の捜査会議の席上,上司から任意性,信用性を意識した取調べを行うよう指示され,Fも,その点に配慮して備忘録に記載していたというのに,昼食及び夕食を取調室でとろうとしない被告人に対し,留置場に戻ってとるように申し向けた旨の記載が備忘録にまったくないのも不可解である。また,同日の取調べは午前10時53分ころに開始され,それが終了したのは翌3日の午前零時20分ころであって,被告人は約13時間27分の間のほとんどを取調室に滞留した状態にあり(なお,用便等のために取調室を出たとは考えられるが,備忘録にその旨の記載はない),その間,昼食時間及び夕食時間(備忘録では各1時間)を除き,取調べが行われたというのに,同日の備忘録中の記載は,B5サイズの本件備忘録の1頁半ほどの部分に簡単な記載がされているに過ぎず,その記載状況からは,昼食後被告人の態度が軟化したような様子は特段見受けられない。かえって,当日の記載内容が簡略なのは,取調べがこう着状態にあったことも一因である旨のFの供述をも併せ考慮すると,午後の取調べで被告人の態度が軟化したため再度夕食を取調室でとるように申し向けたとのDの供述は信用し難く,取調官らが供述するように,取調室での食事を拒否する被告人に対し,留置場に戻って食事をするよう勧め,これを被告人が断ったと認めるには疑問があり,他方,DやEらに房に帰りたいと言ったが帰してもらえなかったし,Dから房に戻って食べてもよいという話もなかった旨の被告人の供述の信用性を排斥できないというべきである。そして,かたくなな態度で黙り込むなどして供述を拒否している被告人に対し,昼食及び夕食を取調室でとるように申し向けて長時間取調室に滞留させることは,供述拒否の態度で取調べに臨む被告人に対し制裁を課したとみられてもやむを得ないものといえる。
(イ)11月11日に自白した状況
 
所論は,Dら取調官の供述を基に,同日の夕食後の取調べで,立ち上がったり座ったりを繰り返していた被告人が,やがて,座らせてほしいと言って床に座り,号泣し始め,「すいません,殺しました。」と言い,向かいに座っていたDの膝元に泣き伏し,A殺害について自白し,次いでB及びC殺害についても自白した旨主張する。
 
しかし,Dらが供述するように,被告人がDの膝にしがみついて号泣し,本件各殺人について自白するに至ったとの状況があったのか疑問が残るといわざるを得ないことについては,原決定が「理由」第3の2(5)で指摘する事情に加え,次の点を指摘できる。すなわち,当日の取調べに当たったD,E及びFの供述を総合すれば,当日夕食後の取調べにおいて,上記のとおり,被告人は,立ち上がったり座ったりを繰り返すようになり(取調官らの供述によれば,上記被告人の行動は,被告人が自白すべきかどうかとかっとうしている状態を表すもの,という。),その様子から自白するのではないかと考えたFは,「被告人の心情に配慮し」,自らの判断で席を外した,その後,上記のとおり,被告人は,Dの膝にしがみついて号泣し,本件各殺人を自白し始め,EはDの背後からその様子を見守り,Fは隣室でその様子をうかがっていた,ということになる。しかし,Fは,自らも認めるように,主に取調状況の記録・連絡係としての役割を担う取調補助官として本件取調べに関わっていたものであるから,まさに被告人が自白しようとしている状況の中で,自らの判断で席を外して記録をとらず,隣室から状況をうかがっていたというのはいかにも不自然である。他方,原決定が指摘する事情,ことに,11月8日には翌日の午前零時10分まで,同月10日には翌日の午前2時35分までそれぞれ取調べがなされたのに,なんらの補完措置がとられることなく,同月11日には午前9時31分ころから取調べが開始されていることからすると,同日,朝から取調べがあり,体も疲れ切っていたので,これ以上はがんばれない,体がもたない,Dの言うことに合わせて房に戻って早く横になりたいという気持ちになり,A殺害を認めた旨の被告人の供述の信用性を排斥できない。したがって,取調官による暴行の点については疑問を留保しつつも,被告人の供述するところの自白直前の心理状態は,それまで連日深夜に及ぶ長時間の追及的な取調べを受け続けてきた者の心理として十分首肯しうる内容のものであるとし,その信用性を排斥することができないとした原決定に誤りはない。
(4)なお,原決定は,検察官が,S少年刑務所に移送後に作成されたものとして証拠調請求をした上申書(乙84ないし93)について,同各上申書が上記移送後に作成されたものとは断定することはできず,疑わしきは被告人の利益に解するとの見地から,G警察署における取調べの際に作成されたものと認定し,これらについてもその証拠能力を否定せざるを得ないとしているところ,所論は,上記の各上申書がS少年刑務所での取調べの際に作成されたものであることは,備忘録の記載と上申書の記載の明確な符合から疑う余地がない旨主張する。
 
なるほど,備忘録中の11月30日欄及び12月1日欄に,上記各上申書の記載内容と符合するとみられる記載があることは所論指摘のとおりである。しかし,備忘録の11月30日欄には,乙84と同様の図が記載されているものの,図面が作成された旨の記載はなく,また,3回目に会った際「H」に行った旨の記載はあるものの,図面を作成した旨の記載はない〔なお,乙88は,「3回目」と記載がある「H」の図面(車の位置についても記入があるもの)。〕。他方,上記備忘録の同日「20:18」欄には,「Iボウリング場入ってから車を止め出て行くまでを図示」との記載があるが,上記各上申書中にはそれに相当する図面は見当たらず,備忘録にもそれに相当する図面は記載されていない。したがって,上記各上申書と備忘録の記載が符合しているとはいえない。また,乙84ないし88,91,92は白紙に簡略な図面を記載したもの,乙89は「つき合う前に知っていたこと」と「つきあいだしてから知ったこと」,乙90は「Aさんに私のことを話したこと」と「Aさんがすでに知っていたこと」との表題で箇条書きがされているものであるところ,検察官が証拠調請求をした他の上申書(乙2ないし28,45,48,51ないし62,65ないし81)には,書面の冒頭に「上申書」との記載があり,また,いずれについても作成日付の記載と被告人の署名・指印がある上,それらのうち図面を記載したもの(乙8,9,14,16,17,19,20,21,23,26,27,53ないし62,65。なお,乙21は本文に添付のもの)をみても,いずれにも,図面の説明が具体的に添えられていて,図面だけのものはないのに,上記各上申書(乙84ないし93)には,作成日付の記載も被告人の署名・指印もなければ,図面の具体的な説明もない。そうすると,G警察署での取調べの際に下書きとして記載したものであるとの被告人の供述も,無下に排斥することはできない。
 
以上に加え,原決定が,第4の1(6)中で指摘する事情をも併せて考慮すると,上記各上申書が,被告人がS少年刑務所に移送後に作成されたものと認めるには,原決定同様疑問が残る。
 
以上の他,所論が主張する諸点を逐一検討しても,本件上申書等及び本件実況見分調書の証拠能力を認めなかった原決定は誤っておらず,原審がこれに対する検察官の異議申立てを棄却した点にも誤りはなく,原審の訴訟手続に所論の法令違反は認められない。したがって,法令違反の論旨は理由がない。
3 事実誤認の主張について
 
論旨は,要するに,原判決は,被告人が本件各殺人の犯人であると認定するに十分な情況証拠(以下「間接事実」の意味も含む。)があるのに,これらを個々分断して検討した上,およそ現実性に乏しい抽象的可能性を過大に考慮して情況証拠の価値を不当に低く評価した上,これらの情況証拠の適切な総合評価を行わなかった結果,いずれの公訴事実についても犯罪事実の証明がないとしたものであり,原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある,というのである。
 
しかしながら,当審における事実取調べの結果をも併せ考慮しても,原判決の上記認定は,その「理由」中における認定・判示を含め,すべて正当として是認でき,原判決に所論の事実誤認は認められない。以下,所論にかんがみ,若干補足して説明する。
(1)所論は,本件各事件の被害者は,同一の現場に遺棄され,絞殺(正確には絞殺又は扼殺というべきである。)という殺害方法も類似しており,同一人物によって殺害されて本件死体遺棄現場に遺棄されたと認められるところ,被告人は,そのいずれについても関わりを有していたと認められるのであって,かかる事実は,被告人が本件各犯行の犯人であることを示す有力な事実である旨主張する。
 
しかし,そもそも,Bについては,死因が不明であって,殺人事件としての事件性自体にも問題があることは原判決が指摘するとおりである上,仮にBが他の2名と同じように何者かによって絞殺又は扼殺されたものであるとしても,絞殺・扼殺という殺害方法は特異なものではないから,殺害方法の類似性は,本件各事件が同一犯による犯行である可能性があるという程度のものに過ぎず,同人を含む3名の遺体が同一の現場に遺棄されていたからといって,そのことから直ちに,本件各被害者が同一人物によって殺害されたと認定できるものではない。また,A殺害の犯人が被告人であると認めるに足りる証拠がないことは後記のとおりであり,C及びBと被告人が関わりを有していたと認めるに足る的確な客観的証拠もない。
(2)所論は,J(以下,同人の原審公判証言を,「証言」として引用する。)は,原審公判において,1月25日の10日後である2月4日に警察官から取調べを受けた際,警察官に対し,被告人が1月25日に訪ねてきた事実はないこと及び2月4日以前に最後に被告人が訪ねてきたのは1月19日か同月21日である旨供述したことを認めており,そのJの証言によって,同月25日に被告人がJを訪ねたことはなかったと認定でき,他方,被告人のアリバイ供述は変遷を重ね,最終的に被告人が明らかにしたアリバイも虚偽と認められるから,原判決が,被告人のアリバイ供述が虚偽とは断定できないと判断したのは誤っている,また,被告人がアリバイにつき殊更虚構の事実を述べているのは,被告人の犯人性を推認させる情況証拠の一つであるのに,この点を情況証拠として取り上げて検討していない点でも原判決は不当であるなどと主張する。
 
しかし,原判決も「理由」第5の2(4)で指摘するとおり,被告人のアリバイ供述には変遷があり,不自然・不合理な点が少なくなく,その供述の信用性には疑問があって,被告人にアリバイが成立するとは認め難いものの,所論が依拠するJの証言は,1月25日の行動についての記憶は全くなく,また,その当日の行動に関する具体的な記憶の喚起もないまま,平成元年2月当時に警察において1月25日に被告人に会っていないと述べているのであれば,それが本当であろうという旨の証言をしているにすぎず,その証言内容の真実性に一定の限界がある上,Jの証言からは,上記警察官からの事情聴取の際,被告人に対する覚せい剤譲渡の事実を否定することに意を用いていたことがうかがえ,1月25日の夜にJに会ったという被告人の供述を排斥し切れないことなども考慮すると,1月25日に被告人がJと会っておらず,被告人のアリバイ供述が明らかに虚偽であると断定することはできないというほかない。そして,アリバイ主張の変遷や虚偽のアリバイ主張という事実は,被告人の犯人性を積極的に推認させる他の事実とあいまって,被告人の犯人性を推認させる一事情とみることはできても,そのこと自体から直ちに,被告人の犯人性を推認させたり,それを裏付けるほどのものとは言い難く,後記のとおり,被告人の犯人性を積極的に推認する他の証拠・事実等が不十分な本件において,これを犯罪事実認定の重要な情況証拠として取上げて検討することは相当ではない(なお,原判決も,「理由」第5の4の中で,被告人がA殺害の犯人であるか否かの総合考慮にあたって,被告人のアリバイ主張の変遷等を考慮しても,被告人がA殺害の犯人であることはなお可能性の範囲内にとどまる旨判示しており,原判決が,総合考察の項で,アリバイ供述の変遷等について全く触れていないとの所論も当を得たものではない。)。
(3)所論は,本件当時のAの生活状況や,同人がその妹であるKに交際相手がいることを打ち明けた状況,Aの外出状況などからすると,Aの交際相手は被告人ただ一人であり,1月25日の夜にAを呼び出したのも被告人であると認められるのに,Aの交際相手が被告人一人とは限らないと認定し,同日夜に被告人以外の人物がAを呼び出した可能性があるとした原審の判断は誤っている旨主張する。
 
しかし,Aが被告人の交際相手であり,Aが被告人からの呼出しに応じて,夜間に外出することが多数回あったとしても,そのことから直ちに,被告人が1月25日の夜にもAを呼び出したと認定できるものではない。また,Aは,被告人がLと会っていた同月23日の夜にも外出していることなど,原判決が「理由」第5の3(2)で認定・判示する事情に加え,1月25日以前の電話による被告人からの呼び出しでは,Aは,帰宅後入浴してから被告人と会っていたことになるのに,同日は入浴せずに外出するという,それまでとは異なる外出の仕方をしていることに加え,外出するきっかけになった外部からの電話に対するAの応答の仕方や外出する際の家人に対する言い訳についても,これまでの夜間被告人とあいびきする際の言動とは若干異なっていることなどにも照らせば,Aの交際相手が被告人一人であるとは断定できず,1月25日の夜にAを呼び出したのが被告人であるとも認定できない。
 
この点,所論は,1月23日にAが外出した旨供述しているのは,Mだけであるところ,同人の供述によっても,Aの外出時間及び帰宅時間は不明であり被告人が武雄市内のL方を訪ねたのが同日午後8時から午後10時ころまでの間であることからすると,被告人が同夜,A,Lの双方と会うことは十分に可能であるなどと主張するが,Mの警察官調書(抄本)(甲392,393)によれば,Aが外出する際は,通常本件当日と同様に,午後7時ころから7時30分ころまでに電話があって出かけ,Mが就寝する午後10時ころまでには帰宅しなかったことがうかがわれるから,同日,被告人がAと会った可能性は乏しいというべきである。
(4)所論は,信用性が高いと認められるNの原審公判証言(以下「N供述」という。)によれば,同人が武雄市a町所在のIボウリングセンター駐車場で目撃した鱗ステンレス製バイザー付きの車両は,被告人車両である蓋然性が極めて高く,被告人が,1月25日午後7時30分前に,鱗ステンレス製バイザー付きの被告人車両を運転してk町o地区の自宅を出ていること,被告人の交際相手であるAの使用車両がほぼ時を同じくして上記駐車場で目撃されていることを併せると,Nが目撃した車両は被告人車両であると認定できるのに,原審が,Nが目撃した車両は被告人車両以外の車両であった可能性を否定できないと判断したのは誤っている旨主張する。
 
確かに,N供述の信用性が高いことは,所論主張のとおりであるが,原判決が「理由」第5の3(3)で詳細に認定・判示するとおり,鱗ステンレス製バイザー付き軽トラックの消去捜査の過程では,通信販売によって同バイザーを入手する可能性もあるのに,その場合を考慮されていないなど,その捜査の範囲は限定されたものといわざるを得ない。また,N供述によれば,同人が目撃した軽トラックには人が乗っていなかったというのであり,この点も疑問が残る。したがって,N供述によって,上記Iボウリングセンター駐車場で目撃された鱗ステンレス製バイザー付きの車両が,被告人車両であったとまでは認めることはできないし,1月25日午後7時30分前ころに被告人が被告人車両で外出し,同時刻ころ,上記駐車場でAの使用車両が目撃されている点を併せても同様である。
(5)所論は,原判決は,Aが殺害時に失禁していることは明らかであり,被告人車両の助手席シートに人尿の付着が認められることは,Aの失禁と符合し,被告人の犯人性を積極的に推認させる事実であるとしながら,人尿の血液型が不詳であることなどからその証明力にも限界があり,また,被告人の服役中に被告人車両が他人に貸与されていたことから,被告人が了知していない範囲で同車両の助手席シートに人尿が付着する可能性も否定できないと判示しているが,座席シートに尿斑が残るほど尿を漏らす事態は,同車助手席に子供が乗車した場合であっても,通常考え難いから,原判決の上記判示は,抽象的可能性を過大に評価し,上記事実の証拠価値を不当に低く評価するもので,不当である旨主張する。
 
しかし,被告人車両助手席に付着していた人尿の血液型が不詳であることは,それが判明してAの血液型と一致する場合に比し,被告人車両の助手席シートから検出された人尿とAとの結び付きについての証明力の程度は劣る上,第三者により同シートに人尿が付着された可能性があることは,Aの失禁と,被告人車両の助手席シートに人尿の付着が認められることとが符合するという事実の証明力に一定の制約が生じることは明らかである。

(6)所論は,Aが外出してから1時間以内に死亡していることや本件死体遺棄現場の状況からすると,A殺害後本件死体遺棄現場への移動に自動車が使用され,かつ,Aは自動車内で殺害された可能性が高いのであるから,Aの遺体の身体の傷が,車内にかなり特徴のある突起のある被告人車両内で生じたとして合理的に説明できることは,被告人の犯人性を推認させる重要な情況証拠の一つと考えるべきであるのに,原判決が,Aの身体の傷は被告人車両内で生じたと考えて「矛盾しない。」というにとどまるとして,A事件の犯人が被告人であるか否かの検討に際し,上記の傷を情況証拠として考慮していないのは不当である旨主張する。
 
しかし,関係証拠上,Aの殺害現場は不明であり,A殺害が自動車内で実行されたか否かも不明というほかないのであって,Aの遺体に認められた身体の傷のうちに被告人車両内で生じたと考えて「矛盾しない。」との鑑定結果(Aの身体の傷が,被告人車両内で生じたとして合理的に説明できるとの所論が依拠すると考えられる。)があるとしても,それは単に可能性の一つを指摘するにとどまり,他の同型式の自動車も多数存在し、そうでなくても,その他の自動車については検討もされておらず,被告人車両からA殺害の客観的な痕跡が何ら発見されていない点を考えると,この程度の事実は被告人の犯人性を積極的に推認するものとは到底いえず,上記Aの身体の傷が,被告人が犯人であることを示す重要な情況証拠であるともいえない。
(7)所論は,原判決が,(平成元年)1月28日の被告人に対する取調時に認められた被告人の手の傷は,被告人がA殺害の犯人性を検討するにあたってほとんど影響しないと判断したのは誤っていると主張するが,原判決が「理由」第5の3(7)で正しく指摘するとおり,上記の傷がA殺害時に成傷した可能性を示す証拠は一切ないから,被告人の手に上記の傷があったという事実が認められるからといって,被告人がA事件の犯人であるとの認定に結びつくものではなく,その犯人性にほとんど影響しないとした原判決に誤りはない。 
 
この点,所論は更に,鑑定結果により考えられる受傷時期とA殺害時期が一致することや被告人とAが交際していたことをもって,被告人の手にあった上記の傷がA殺害時に成傷した可能性を示す証拠である旨主張するが,所論の事実をもって,A殺害時に被告人が手に上記の負傷をしたというのは,余りに飛躍が過ぎる。
(8)所論は,原判決が,本件死体遺棄現場と被告人の関連性,被告人に土地鑑があることは,被告人の犯人性を推認させる事実ではないとしたのは誤っている旨主張する。
 
しかし,その主張が相当でないことは,原判決が「理由」第5の3(9)前段で認定・判示するとおりである。本件死体遺棄現場の付近に居住していた被告人が,同所等本件に関連する場所に土地鑑があることはむしろ当然であるが,所論の事情がそれほど被告人の犯人性を推認させるものではない。本件死体遺棄現場が限られた者しか知り得ない,死体が発見されにくい特殊の場所というわけでもなく,現に同所からは,付近住民のみならず本件死体遺棄現場沿いの町道R線を通行する者らによっても投棄された可能性が十分あると考えられる雑多な物が多数発見されている。中には,スピーカーボードや明らかに被害者3名のものではない衣類,下着等も含まれている。
(9)所論は,原判決が,Aの所持品の発見状況から犯人の逃走経路を認定できないと判断したのは誤っていると主張するが,その主張が採用できないことは,原判決が,「理由」第5の3(9)後段で認定・判示するとおりであって,検察官がるる主張する諸点が推測の域を出ないことも,原判決が正しく指摘するとおりである。
 
この点,所論は更に,Aの所持品の発見状況やこれらが死体遺棄現場からさほど離れていない場所で発見されている事実からすると,これらはA殺害当日に投棄されたと考えるのが自然であり,そのことから逃走経路を推認するのは極めて合理的な事実認定である旨主張する。しかし,関係証拠によれば,これら所持品の発見日時はまちまちであり,仮に,所論のとおりAの所持品がA殺害の当日に順次投棄されたとしても,その投棄順序については記録上必ずしも明らかではない。そもそも,被告人が犯人とすれば,本件死体遺棄現場から自宅に至る道筋に順次Aの所持品を遺棄していくのか疑問である上,そのいずれからも,指紋等被告人との結び付きを明らかにするものは全くない。結局,検察官の主張は憶測の域を出ないものといわざるを得ない。
(10)当審における事実取調べにかかる鑑定書について
 
この点,検察官は,弁論において,鑑定書(当審検第5号。以下「本件鑑定書」という。)及びOの当審公判廷における証言(以下,これらを合わせて「本件鑑定」ともいう。)によれば,Lが被写体となった写真にラミネート加工されたもの(当庁平成18年押第6号の1,原庁平成15年押第3号の1。以下,「本件写真」という。)に付着していた指紋を転写したゼラチン紙の不鮮明指紋部分から,CのミトコンドリアDNA型と同一型のそれが検出されており,本件写真に触れた可能性のある捜査官等の中に上記DNA型と同じミトコンドリアDNA型を有する者はおらず,捜査の結果,Cの親族の中に被告人と接触した可能性がある者もいない上,Cと同一のミトコンドリアDNA型を有するものは,日本国内でミトコンドリアDNAの研究をしている医師等10人の保有するデータ5380例中に1例もないという希有なものであるから,上記ゼラチン紙から検出されたミトコンドリアDNAがCのミトコンドリアDNAであった可能性は極めて高いというべきであり,この事実は,Cが被害当時被告人車両に乗車していたことを示すものであり,ひいては,被告人がC殺害の犯人であることを証する重要な事実である旨主張する。
 
そこで検討するに,上記鑑定書については,弁護人らが,答弁及び弁論において,刑訴法382条の2第1項に規定する「やむを得ない事由」によって原審弁論終結前に取調べを請求できなかった証拠には該当しない旨主張するので,所論の内容に入る前に,まずその点について検討すると,本件鑑定は,本件写真に付着していた指紋を転写したゼラチン紙の不鮮明指紋部分に付着した体液からミトコンドリアDNAを抽出し,その型を鑑定するというものであり,当審取調べにかかるPの証人尋問調書(以下「P供述」という。)によれば,原審当時,上記の方法によるミトコンドリアDNA型の鑑定については,前例がほとんどなく,捜査官において,上記の方法による鑑定が可能であることを全く知らなかったところ,原判決後,証拠の再検討をした際,指紋を転写したゼラチン紙の不鮮明指紋部分についた体液による鑑定が可能かどうか再検討し,警察庁や警視庁の科学吏員に問い合わせ,最近数例の実施例があると聞き及び,本件鑑定が可能であることを知り,本件鑑定に至ったというのである。
 
以上のような本件鑑定の経緯や鑑定方法の特殊性,捜査官の認識などに照らせば,検察官が当審に至って本件鑑定書の証拠調請求をしたことは,刑訴法382条の2第1項にいう「やむを得ない事由」によるものとみるのが相当である(なお,仮に本件鑑定書の証拠調請求が同条項の「やむを得ない事由」に該当しないと考えられる場合であったとしても,本件事案の重大性等にかんがみれば,控訴審裁判所の職権による取調べが許され,かつ,それが相当な場合であると考えられる。)。
 
そこで,所論の内容に入って検討する。
 
まず,ミトコンドリアDNAはいわゆる母系遺伝するものであり,同遺伝を通じて同一型のミトコンドリアDNAを保有する者は少なからず存在している。次に,P供述及び当審取調べにかかるTの証人尋問調書によれば,検察官が主張するように,本件写真が,被告人が別件覚せい剤取締法違反の事実で逮捕された後である10月5日に,上記容疑で,当時被告人が居住していた被告人の勤務先の寮を捜索した際,同社従業員から任意提出を受けて押収され,同月10日に被告人の母親に還付され,さらに,その後の11月28日に被告人の母親から任意提出を受けて押収された後,G警察署に保管されて,指紋採取のため佐賀県警察本部刑事部鑑識課に送付され,ゼラチン紙に指紋を転写したものを同課で保管していたものであることが一応認められる。P供述によれば,捜査日誌から判明した当時の担当者から事情を聴取したり,保管されていた捜査書類を基に,本件写真に触れた可能性のある捜査官8名を割り出したというに過ぎないのであって,その経緯からして,本件写真に触れた可能性のある捜査官を上記の8名のみであると断ずることはできず,実際に本件写真に触れる機会のあった者の範囲は必ずしも明らかではない。上記捜査官らが本件写真に触れた際の状況も明らかではない。また,上記従業員から任意提出を受けて押収された際,本件各事件と本件写真との関連は全く考慮された形跡もなく,ましてや後にミトコンドリアDNA型の鑑定が行われることなどを考慮した取扱いがなされたとは到底考えられず,同押収から10月10日に被告人の母親に還付されるまでの間の保管状況にも心許ないものがある。Cが殺害されたと思われる昭和63年12月7日から(平成元年)10月5日までの間,及び被告人の母親の元にあった上記の間の保管状況は全く不明である。関係証拠に照らして,ミトコンドリアDNAの証拠物からの検出に当たっては,種々の可能性を考えて,その検出の理由に慎重な考慮を払う必要がある(本件では,捜査の過程において,CのミトコンドリアDNAが捜査官を介して二次的に鑑定資料に付着する可能性もその一つとして考慮すべきである。)。また,証人Qの当審公判供述によれば,同人がミトコンドリアDNA型の調査データを保有している団体等に問い合わせた結果,問い合わせ先のデータ数合計5000余りの中にはCのミトコンドリアDNA型と一致するデータはなかったことが認められるものの,そのデータ採取の過程や重複の有無などは不明であり,その個人識別の精度は判然としないといわざるを得ない。
 
そうすると,上記8名の捜査官についてミトコンドリアDNA型を鑑定した結果,CのミトコンドリアDNA型と一致する者がおらず,また,Cの親族の中に被告人と接触した者がいなかったとしても,本件写真に付着していた指紋を転写したゼラチン紙の不鮮明指紋部分からCのミトコンドリアDNA型と同一型のそれが検出されたという本件鑑定結果が被告人とC事件との関わりを示す情況証拠としての価値は,低いといわざるを得ない。

 そもそも,本件写真からCのミトコンドリアDNAが抽出されることは,いかにも唐突であって,原審記録を精査しても,Cが本件写真に接触したような状況も皆無である。
 
以上の他,所論が主張する諸点を逐一検討しても,本件各事件の犯人が被告人であると認めるには合理的な疑いが残るといわざるを得ない。
 
ところで,当裁判所は,検察官の控訴申立てを受けて,記録及び証拠物を慎重に調査し,当審において,検察官の新たな証拠調請求に対しても,弁護人らの反対にもかかわらず,あえてすべて応じたものである。しかし,結局当裁判所も,原審同様,本件各事件の犯人が被告人であるとの証明はなされていないとの結論に達した。
 
検察官は,前記のとおり,原判決は,被告人が本件各殺人の犯人であると認定するに十分な情況証拠について個々に分断して検討の上,およそ現実性に乏しい抽象的可能性を過大に考慮して情況証拠の価値を不当に低く評価した上,これらの情況証拠の適切な総合評価を行わなかった結果,いずれの公訴事実についても犯罪事実の証明がないとしたのは不当である旨主張する。
 
しかし,原審は,検察官が挙げる個々の情況証拠を詳細に検討し,その事実の存否や問題点を逐一明らかにした上,その証拠価値を判断し,これらを総合考慮しても,A事件については,被告人が同事件の犯人であると認めるには合理的な疑いが残り,A事件の結論がそうである以上,元々極めて証拠の少ないB事件,C事件についても犯罪の証明がないとして,いずれも無罪の言渡しをしたものであって,検察官の原判決に対する上記批判は到底当を得たものではないというべきである。そもそも,記録上うかがえる検察官又は捜査官側が考えている被告人に対する本件各事件の犯行に至る経緯,犯行動機は,非常に衝動的,偶発的なものと推察されるところ,本件各被害者の遺体が発見され多数の捜査官を動員して捜査が行われたのに,本件各事件のいずれについても,被告人と被害者とが行動を共にしているところを見た目撃者は現れておらず,指紋などの被告人と各事件の関わりを示す直接的かつ決定的な客観的証拠は皆無であって,この程度の証拠で,重大な本件各事件について被告人を有罪とすることは,刑事裁判の鉄則に照らしてできないというべきである。原判決の判断は相当である。したがって,検察官のこの論旨も理由がない。
第3 結論
 
よって,刑訴法396条により本件控訴を棄却することとし,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 正木勝彦 裁判官 平島正道 裁判官 柴田厚司)

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