放火福岡7

放火福岡7

福岡高等裁判所/平成八年(う)二六三号

主文
原判決を破棄する。
被告を懲役三年六月に処する。
原審における未決勾留日数中三五〇日を右刑に算入する。
原審及び当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由
検察官の本件控訴の趣意は検察官樋口生治提出(検察官松原妙子作成)の控訴趣意書に、弁護人の本件控訴の趣意は弁護人高橋謙一提出の控訴趣意書に、各記載されているとおりであるから、これらを引用する。
第一 検察官の控訴趣意中事実誤認の主張について
 
所論は、要するに、原判決は、非現住建造物等放火被告事件(以下、「本件放火事件」という。)につき、被告人の自白の信用性には合理的な疑いを入れる余地があり、その他に被告人が犯人であることを合理的な疑いを超えて証明するに足りる証拠がないとして無罪を言渡したが、客観的証拠によっても被告人が犯人であることが明らかであるばかりでなく、その旨の被告人の捜査段階の自白は十分信用できるものであるというべきであるから、原判決は証拠の評価を誤り、事実を誤認したもので、この誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。
 
そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも加えて検討する。
一 本件放火事件の公訴事実の要旨及びこれに対する原判決の判断について
 
本件放火事件の公訴事実の要旨は、「被告人は、福岡県久留米市《番地略》所在の甲野ビル二階に事務所を置く乙山建設工業株式会社に経理事務員として勤務しているものであるが、同会社が平成四年五月一一日に所轄税務署による税務調査を受けることになったことから、右調査が行われると自己の業務上横領の事実が発覚するのではないかと危惧し、騒動が起きれば右調査が延期されるとして、同会社が所有する右甲野ビル(六階建、鉄筋コンクリート造り)一階所在の理髪店『丙川』(A管理、床面積約六八・六七平方メートル)に放火してこれを焼燬しようと企て、右同日午前三時ころ、同店内において、床上に灯油をしみこませた毛布を置いた上、これに点火した新聞紙を落として火を放ち、右毛布から床等に燃え移らせ、よって、同会社所有の人の現在しない右店舗の床の一部を焼燬したものである。」というものである。
 
原判決は、右公訴事実について、その無罪理由中の「被告人と放火行為とを結び付ける証拠の構造について」の項において、「本件については、犯人が被告人であることを示すような物的な証拠はなく、また、被告人が放火行為を実行するのを直接目撃した者もいない。被告人と犯人を結び付ける証拠は、被告人自身の捜査段階における自白、本件火災の発生時に甲野ビル向かい側の路上にいて、駐車場から赤色の普通乗用自動車を運転して道路に出てきた被告人をみかけ、会話を交わしたとする証人B及び同Cの第二回公判調書中の各供述部分、被告人から自白に副う話を聞いたという元同房者であったD子の検察官調書等の供述証拠に限られている。したがって、公訴事実が認定できるか否かは、右各供述証拠が証拠として許容され、また、信用し得るものであるか否かにかかるものである。そこで、まず被告人の自白が任意性を有し証拠能力を認められるか否かについて検討を加え、次に証拠能力が認められる場合にその内容が信用できるか否かを、B、C証言等の内容をも加味して、考察することとする。」として、まず被告人の捜査段階における自白の任意性を検討してこれを肯認し、次に右自白の信用性を検討する中で、右自白以外の証拠により認められる各事実とこれに関する被告人の自白内容には見逃しがたい不一致があるほか右自白内容自体にも不自然不合理な点がみられるとした上で、原審証人B、同C及び同D子の各証言が被告人の右自白の信用性を担保しているかどうかという観点から検討して、右自白の信用性の担保とはなり得ず、その他右自白の信用性を担保する証拠もないことから右自白は信用できないとし、更に、右自白以外の証拠により認められる被告人の不自然な言動は、被告人が犯人であることを疑わせる事情ではあるものの、被告人の自白が信用できず、その他有力な証拠がみあたらない証拠構造の下においては、右事情は被告人の犯人性認定に何ら意味を有しないというほかない旨説示している。
 
しかしながら、原審証人B及び同Cの各証言内容は、本件火災当時の午前三時ころ、本件火災により甲野ビルの非常ベルが鳴り出した直後に、同ビル南側の駐車場から被告人が普通乗用自動車を運転して同ビル北側の道路に出てきて東方向に左折しかけ、逆方向の同ビルの南西方向の道路上にいたBらに気付くと、わざわざ進行方向を変えてBらのすぐそばまで来て、「あそこに非常ベルが鳴っとるばってん、どうしたらよかね。」等とそわそわした様子で話し掛けたが、すぐに点灯していた前照灯をことさらに消して方向転換して東進した後南方向に右折して走り去った、というものである。これによれば、被告人は、本件火災発生時の午前三時ころという時間帯に、自宅から遠い本件火災の発生現場である理髪店「丙川」の入居している甲野ビルの駐車場に現在していた上、被告人の勤務先である乙山建設工業の事務所が甲野ビルの二階にあってそのビルの火災報知器が鳴っているという緊迫した事情があるにもかかわらず、事務所の安否を確認したり、消防署に通報したりせずに走り去り、しかも後に判明したところによるとその立ち去った方向は自宅のある方向と逆方向であったというのであるから、B、Cの各証言の証拠価値については特に重要なものとして検討する必要があるといわなければならないのに、原判決は右各証言をもって被告人の自白を補充するものとしてしか把えてなく、原判決の証拠評価はこの点にまずもって問題があるといわざるを得ない。
 
本件においては、原判決も指摘するように、犯人が被告人であることを示す直接的な物的証拠はなく、また、被告人が放火行為を実行する場面を目撃した者もいないことから、被告人が犯人であるかどうかは、被告人の自白以外の客観的証拠から認定できる本件火災の状況(失火によるものか放火によるものか)、放火によるものとした場合のその犯行態様、理髪店「丙川」への侵入方法、特に合鍵、マスターキー等を使用して犯行時間に右理髪店に侵入できた人物が被告人以外にいたかどうか、被告人以外に犯人がいる可能性があるか否か等の諸点を考察し、被告人の自白を除いた客観的証拠によってどのような事実が認定できるかを検討するとともに、併せて、被告人の捜査段階における自白の任意性、信用性を検討し、右自白のもつ証拠としての重みがどの程度であるのかを正確に評価し、これらの検討結果を総合して、被告人が合理的疑いを超えて本件放火の犯人であると認定できるかどうかを検討するのが相当である。
 
そこで、所論にかんがみ、このような観点から、原審において取り調べた関係各証拠及び必要に応じて当審における事実取調べの結果をも併せて、被告人が合理的疑いを超えて本件放火の犯人であると認定できるかどうかを検討する。
二 客観的証拠から認定できる本件の犯行態様
1 本件火災現場である甲野ビルの状況
 
本件火災現場である理髪店「丙川」は、福岡県久留米市《番地略》所在の甲野ビル一階にあり、右甲野ビルは、東西に通じる幅約八・一メートルの幹線道路に面する鉄筋コンクリート造・陸屋根・六階建、総床面積一九四八平方メートルの建造物で、一、二階は賃貸店舗となっており、本件火災当時、一階の西側から不動産業「丁原」、焼鳥屋「戊田」、理髪店「丙川」、進学塾「甲田学院」が、二階は西側から乙野耳鼻咽喉科医院、家主の乙山建設工業(理髪店「丙川」と進学塾「甲田学院」の真上にあたる),乙野縫製作業所が入居し、三階から六階までは一般住宅二〇世帯が入居していた。各入居店舗等の区画として鉄筋コンクリート製の壁が設けられ、一階各店舗間の壁には通用口はなく、「丙川」への出入口は幹線道路に面した南側表出入口と北側駐車場に面した裏出入口の二か所のみである。
2 本件火災の状況等
 
本件火災は、平成四年五月一一日午前三時ころ発生し、たまたま帰宅してきて本件火災を発見した近隣住民Bが午前三時三分ころ消防署に通報し、右B、その友人C及び甲野ビル六階の住人で管理人のEらが消火活動に従事し、間もなく到着した消防車の放水により午前三時一六分ころ鎮火した。 
 
鎮火直後の「丙川」店舗内中央付近の床に焼燬した毛布が丸められた状態で置かれ、その周囲の床が全面にわたって焼燬し、東側に筋状に強く焼燬した部分が延びており、右毛布からは灯油が検出された。毛布の残されていた位置の上方は全体的に熱によって変形したり塗装が剥げたり蛍光灯が落下したりしており、北側壁面の時計、西側のテレビ、西側壁面の鏡の回りの取付器具が熱によって変形していた。
 
前日の営業終了後、「丙川」の経営者Aはボイラー等の元栓を締め、灰皿の始末をするなどして帰宅しており、本件火災当時、同理髪店内には火気のもととなるようなものはなく、また、他に失火の原因となるような事情も見あたらない。
 
右状況に照らすと、本件火災は、器具等の故障等による失火等とは考えられず、何者かが、右毛布を右理髪店舗内に持ち込み、中央床上に置いて灯油を染み込ませ、これに火を放ったものと推認される。
 
なお、理髪店「丙川」が入っている甲野ビルは耐火構造となっていることなどから、本件火災が二階以上に延焼する可能性は少なかった。
三 本件火災発生直後の被告人の行動について
1 本件火災発生直後の被告人の行動について
 
本件火災発生直後に甲野ビル付近で被告人を目撃したB、C等の捜査段階及び原審公判廷における各供述等によれば、次の事実が認められる。
 
すなわち、平成四年五月一一日午前三時ころ、甲野ビルの前面幹線道路を挟んで南西方に位置する丁川ビル一階に居住するBは、内妻F子、友人Cとともに外出先から戻り、同ビル前路上に車から降り立った際、非常ベルの音を聞いた。Bは、甲野ビルと通りを挟んで南西側に向かい合う戊原銀行津福支店に強盗が入ったのではないかと考え同銀行のビルの表通り付近まで行ったがそこは非常ベルは鳴っておらず、非常ベルが鳴っているビルはどこか探していたところ、甲野ビルの北側駐車場から自動車のエンジンを掛ける音を聞くと同時に、ライトの光で同駐車場側が明るくなるのを見た。そして、袋小路となっている甲野ビル西側道路から後に被告人と判った髪の長い女性が運転する赤色ミニクーパーが表通りに走り出てきて、一旦東方に左折しようとしたが、Bらが右車を注視し、車内の被告人と視線が合うと、被告人は左折進行中の車両の方向を変えて右折し、表通り南側にいたBらの前に車を西側に向けて停止させた。被告人は、車内から、甲野ビルを指さしてBらに対し、あそこで非常ベルが鳴っているが、誰かに知らせなくていいのか、と話しかけてきた。その際の被告人はそわそわして早口で落ち着きがなかった。その後、被告人は、車を発進させ、表通りをユーターンし、点灯していた前照灯を消して東進した後、被告人の自宅とは異なる南側に右折して走り去った。Bらは、被告人の態度や非常ベルが鳴っているときにいきなり甲野ビルの方から出てきたことから、被告人が本件火災に何か関係しているのではないかと考え、走り去る被告人の車のナンバーを記憶しようとした。その直後、Bらは甲野ビル一階の理髪店から黒い煙が出ているのに気付いた。
 
右事実によれば、被告人は、午前三時ころという未明の時間帯にもかかわらず、勤務先である乙山建設工業があるとはいえ自宅から遠い甲野ビルの駐車場にわざわざ出かけて来ており、しかも被告人が右駐車場にいたのは、甲野ビル一階の理髪店「丙川」で本件火災が発生した直後である上、Bらに目撃されるや、ことさら進行方向を変えて同人らに近づき、Bらが未だどのビルの非常ベルが鳴っているのか気付いていないのに、自ら甲野ビルで非常ベルが鳴っていることについて話しかけ、その直後に自分の勤務会社が入居しているビルの非常ベルが鳴っているのに事態を確認するとか消火活動をするとか一一九番通報をするとかせずに車のライトに消して走り去るという、極めて不自然な行動を取っていることが認められる。
2 被告人の弁解について
 
被告人は、深夜、勤務先である乙山建設に行った理由について、捜査段階においては、(1)眠れなかったのでドライブしようと思って外出したとか、(2)甲野ビルに居住する友人G子を訪ねるつもりであったとか弁解し、原審公判廷においては、(3)平成四年五月一一日から行われる税務調査のために、自宅に持ち帰って整理していた帳簿等を会社の事務所に届けるために行ったと弁解するに至っている。しかしながら、被告人の弁解はその内容がときとともに変遷している上、個別にみても、(1)の弁解は、何故深夜ことさらに勤務先である乙山建設工業のある甲野ビルに赴いたのかについての合理的な説明に欠けており、(2)の弁解は、原審公判廷において虚偽であることを自ら認めており、(3)の弁解についても、持ち帰っていた帳簿等は出勤の際に持参すれば事足りるのに、何故前日の深夜にわざわざ持っていく必要があったのかについて合理的な説明がなされておらず、そもそも右弁解は公判段階に至って初めてなされたものであるが、右弁解が真実であれば捜査段階で何故言わなかったのかという疑問が残ることなどにかんがみると、被告人の右弁解はいずれも説得力に欠けるものであり俄に信用することができない。
 
また、被告人は、甲野ビルで火災報知器の非常ベルが鳴り出したことを認識しながら何らの消火活動等をせずに車で走り去った点について、原審公判廷において、自宅に持ち帰っていた帳簿等を会社の事務所に返すために車で甲野ビルに赴いたが、同ビルの北側駐車場に入り車を停めたところ、突然火災報知器が鳴り出したのでびっくりしてしまったこと、夫に黙って外出していたため早く帰る必要があったこと、余計なことに関わり合いになりたくなかったことなどを挙げており、当審公判廷においても同趣旨の供述を維持している。しかしながら、火災報知器が鳴り出した甲野ビルの二階には被告人が勤務している乙山建設工業の事務所があり、三階には親しい友人で甲野ビルの管理の仕事を手伝っていたG子や六階には同会社の常務取締役のEが居住しているのであるから、夫に黙って外出していることや面倒なことに関わり合いになりたくないと思ったとしても、少なくともG子やEに火災報知器が鳴っていることを知らせるなり一一九番通報するなりするのが自然であると思われる。被告人の原審公判供述によれば、甲野ビルの火災報知器は誤作動で鳴ることがしばしばあるというのであるが、そうであれば、まず火災報知器の誤作動かどうかを確認してもおかしくはない。いずれにしても、被告人の右弁解は説得力に欠け俄に信用し難い。
 
更に、被告人は、甲野ビルの北側駐車場へ通じる路地から南側幹線道路に出るに際し一旦左折しようとしていたのに、わざわざ右折してB、Cらがいるところに近づき甲野ビルで火災報知器が鳴っていることを話しているが、被告人の公判供述によれば、早く家に帰りたい、面倒なことに関わり合いたくないと思っていたというのであるから、道路にいたBらに車を見られたとしても、放火犯人でなければ気にすることなくそのまま左折して自宅に向かえばよいと思われるのに、何故このような不自然な行動を取ったのか疑問になる。
しかし、この点について被告人は積極的な弁解をしていない。また、被告人がBらに近づいたのは甲野ビルで火災報知器が鳴っていることを教えるためであるとすれば、その直後にBらは理髪店「丙川」から煙が出ているのを発見しているのであるから、被告人もその煙を認めることができた筈であり、そうであればむしろ一緒に通報するなり消火活動をするのが自然であると思われるのに、直ぐに車の前照灯を消して走り去るというのも不自然である。この点について、被告人は、原審及び当審公判廷において、車の前照灯は甲野ビルの北側駐車場に通じる路地に入る手前で駐車場横の家の迷惑になると思って消しており、火災報知器のベルを聞いて幹線道路に出る際にも消したままであったし、Bらに話しかけた後、直ぐに立ち去ったのも、Bらが車のナンバーのことを言いだし騒ぎ出したので怖くなったからである旨の弁解をしているが、右弁解内容自体十分説得力のあるものとはいえない上、BやCが、捜査及び原審公判段階を通じて、ライトを点けた被告人運転の車が甲野ビル横の路地から出てきて、Bらのところへ来て話した後、ライトを消して走り去った旨明確に供述していることに照らしても、俄に信用し難い。
四 被告人の捜査段階における自白について
1 自白の経過及び内容について
 
被告人が、本件放火を自白するに至った経緯は次のとおりである。
(一)本件火災発生後である平成四年五月二八日、被告人は参考人として警察官から事情聴取されたが、その際は、「本件火災を知ったのは出火当日の午前七時五〇分ころE方に当日出勤が遅れる旨電話した際、同人の妻から聞いた。自分が所有している車は、イギリス製ローバー白色一台である。」旨供述し(原審検九六)、本件火災発生当時、甲野ビル付近に行っていたこと、赤色ミニクーパーを所有していることについては供述していなかった。
(二)その後、捜査機関は、本件火災発生当時、甲野ビル付近でBらが目撃した赤色ミニクーパーについて不完全番号(久留米○○ほ○○―○○)照会した結果、被告人所有の赤色ミニクーパー(久留米○○ほ○○―○○)の存在が判明し、Bらが目撃した赤色ミニクーパーを運転していた女性が被告人に似ていることが分かったことなどから、同年七月八日午前九時三〇分ころ、被告人に任意同行を求め、午前一〇時三五分ころから午後一時五〇分ころまでポリグラフ検査を実施(一部に特異反応が出た)した上、午後二時ころから被疑者として取り調べをしたところ、当初は本件火災発生当時甲野ビルに行ったことも否定していたが、午後五時ころまでに、甲野ビルに行ったこと及び理髪店「丙川」への嫌がらせ目的で本件放火を行ったことを認めるに至り、その旨の警察官調書(原審検九九)が作成された。その結果、被告人は、同日午後九時五分ころ現住建造物等放火の容疑で通常逮捕され、その後の警察官に対する弁解録取の際も右自白を維持し(原審検九七)、同月九日の検察官(野村政一検事)に対する弁解録取の際も右自白を維持した(原審検九八)。
(三)同月一〇日、被告人は、弁護人と接見(午後一時四四分ころから五八分ころまで)した後、裁判官の勾留質問を受け、その際には否認したが、その後の警察官の取り調べに対しては再び本件放火を認め、同月一三日昼ころまでは自白を維持し、同月一二日付け(原審検一〇一)及び同月一三日付け(原審検一〇二)の各警察官調書が作成された。それまでの自白内容は、概ね「平成四年五月一一日午前一時か二時ころふらっと家を出て赤色ミニクーパーを運転してドライブをした。そのとき、甲野ビルの前を通った際、ふと理髪店『丙川』が改装したので中に入って様子を見たくなった。それで、甲野ビル二階の配電盤の中から乙山建設工業の事務所の鍵を取出し中に入り、流し台の扉の裏に掛けてある甲野ビルのマスターキーを取りだし、一階に降り、『丙川』の裏出入口の施錠を開け、直ぐにマスターキーを二階の右事務所に戻しに行った。『丙川』の中に入り、雑然としている物置を見ているうち、それまで駐車場のことや飼い犬の糞の始末のことで『丙川』の奥さんに対して嫌悪感を持っていたことから、『丙川』を困らせてやろうと考えた。そこで、『丙川』の外の水道メーターのところにあった毛布のようなボロ布を店内の中央におき、物置にあった新聞紙を細長く丸めて物置内の灯油缶に差し込み灯油を染み込ませて、ボロ布等に振りかけ、これを三回以上した。その後、店外に出てみると裏出入口近くにマッチが落ちているのが目に付いたので、これで火を付けてやろうと決意し、店内に入り、灯油の染み込んだ新聞紙に火を付けたところもうもうと煙を出して燃えだしたのでびっくりして右新聞紙を落としたところ、右ボロ布の上に落ちボロ布も煙を出して燃えだした。」というものであった(以下、これを「第一次自白」という。)。
(四)ところが、被告人は、同月一三日午後二時一八分ころから三七分ころまで弁護人の接見を受けた後、再び本件放火を否認するに至り、甲野ビルに行ったのは同ビルに住んでいるG子に会うためであった旨主張し、以後、同月二二日まで否認を続け、その間、同月一七日に前科関係の警察官調書が作成された以外は調書は作成されなかった。この間、被告人は、同月一四日、一六日、一八日、二〇日、二二日に弁護人と接見している。なお、その間の同月二二日ころ、久留米警察署に乙山建設工業から被告人が会社の金を使い込みしているようだとの連絡があった。
(五)同月二三日午後五時三〇分ころから午後八時ころまで、吉瀬信義検事が被告人を取り調べたが、その際、同検事は嘘をつかれると後で困るので本当のことを述べるように言うと共に、放火で執行猶予になった事例などを説明しながら取り調べたところ、被告人は、当初は一〇〇〇万円位の会社の金を横領したことは認めたものの放火については否認していたが、午後七時ころに、税務調査が行われると会社の金を使い込んでいるのがばれるのではないかと心配になり、思い悩んだ末、放火騒ぎを起こして税務調査を延期させようと思い付き、「丙川」の奥さんに嫌悪感を持っていたから、どうせ火を付けるなら「丙川」にしようと考えた旨の自白をするに至り、その旨の検察官調書(原審検一〇三)が作成され、その後行われた警察官による取り調べに対しても、同様の内容の詳細な自白をし、その旨の警察官調書(原審検四〇)が作成された。
(六)その後、被告人は、同月二四日午後三時四五分ころから午後四時七分ころまで弁護人と接見し、自白した旨伝え、弁護人から認めると後で覆すのが難しい旨の助言を受け、同月二七日の勾留理由開示後の接見の際に長男からもやっていないなら本当のことを言って争うように言われたものの、その後の取り調べに対しても一貫して本件放火を認める旨の詳細な供述をして自白を維持し、同月二九日までに警察官調書四通(原審検四一ないし四四)、検察官調書三通(野村検事作成、原審検四五、四六、一〇四)が作成された。その間、同月二七日に弁護人請求による勾留理由開示が行われたが、その際被告人は陳述することはない旨供述し、特に否認することはしなかった(もっとも、右勾留理由開示後に行われた火災再現の実況見分の際には放火状況の指示説明を拒否している。)。
 
被告人の右自白の内容は、「五月一一日に勤務先の乙山建設工業の税務調査が行われることを聞いたが、多額の会社の金を横領しており、それがばれるのではないかと心配になり、生理前で気持ちが落ち着かなかったことも手伝い、発覚するのを防ぐため火事騒ぎを起こして税務調査を延期させようと考え、『丙川』の奥さんにはかねてから不快感をもっていたので、どうせ放火するなら会社事務所の下の『丙川』にしようと考えた。同日午前二時一〇分ころ自宅を出て、赤色ミニクーパーを運転して甲野ビルに行き、同ビル裏の北側駐車場の西側路上に表通りに車を向けて駐車し、同ビル二階の配電盤にかかっている鍵で乙山建設工業の事務所に入り、台所流し台の扉の裏にかけてあるマスターキーを持って『丙川』裏出入口のところに行き、同出入口ドアを開錠し、直ぐにマスターキーを事務所内に戻して『丙川』にとって返した。その際、『丙川』の外壁に設置してあるメーターボックス内に毛布様のものがあったので、それをもって『丙川』内に入り、店に入ってすぐの物置内にあったポり容器を左手で持ち上げ傾けて物置の前で毛布にかけ、ポリ容器を元のところに戻し、右毛布を引きずって店内中央に置いた。店内でマッチを探したがなかったので、再び乙山建設工業の事務所に行き、設計室内にあったマッチを持ってきて、『丙川』の店内にあった新聞紙に火を付け、これを毛布の上に落として火を付けた。火が勢いよく燃えだしたので怖くなり慌てて逃げ出した。」というものである(以下、それを「第二次自白」という。)。
(七)同月二九日、被告人は「丙川」に対する非現住建造物放火罪で起訴されたが、その後、四回弁護人と接見した後、同年九月三日の原審第一回公判期日において再び否認するに至った。
2 自白についての被告人の弁解
 
被告人は、前記自白はいずれも虚偽のものであると主張し、虚偽の自白をするに至った経緯について、種々弁解しているので、まずこの点について検討する。
(一)被告人は、平成四年七月八日に自白したことについて、原審公判廷において、ポリグラフ検査の後、二人の警察官に取り調べられたが、警察官らに「状況証拠はそろっている。犯人はお前しかいない。」などと大声で怒鳴られたりして、感情的に不安定になり、もうどうでもいいという気持ちになってきたとき、「火事といっても床と椅子を少し焼いただけで大したことはない、情状酌量で早く帰れる。」とか、事例を挙げて「執行猶予で出られる。」などと言われたことから、午後九時近くに、自白すればこの不愉快な状態から逃れられ家に帰れると信じて、やっていないのに自分が放火したと自白したところ、午後九時過ぎころに逮捕された旨述べている。しかしながら、同日に被告人を取り調べた原審証人Hの証言によれば、同日午後二時ころから同証人と木村巡査部長の二人が被告人を取り調べたところ、被告人は当初は否認していたが、午後四時ころから涙を流し始め、午後五時ころに自白を始めたこと、同証人らは後日被告人が否認に転じた段階で放火事件で執行猶予になった事例を紹介するなどして説得したことはあるものの、同月八日の取り調べの際には自白すれば帰してやるとか、情状酌量で直ぐに帰れるとか言って説得したことはないこと、最初に自白した際の取り調べは午後六時ころに終わったが、逮捕状請求のための報告書の作成に手間取ったため裁判所に対する逮捕状の請求が少し遅れ同日午後八時二〇分ころになったこと等の各事実が認められ、これらによれば被告人が弁解するような高圧的ないしは利益誘導的な取り調べ状況は窺えないこと、被告人は、同日午後九時五分ころに逮捕された後に行われた警察官に対する弁解録取の際及び翌日行われた検察官に対する弁解録取の際にも自白を維持しており、弁護人と接見した後に行われた裁判官の勾留質問の際に否認したものの、その後の警察官の取り調べに際しては自白を維持しており、自白したら家に帰れると思って虚偽の自白をした旨の被告人の弁解とは矛盾すること(被告人の弁解に従えば、逮捕され家に帰宅できなくなったのであれば、その後も虚偽の自白を維持するのは不自然であり、むしろ逮捕されるのが分かった時点から否認するのが普通と思われる。)等にかんがみると、被告人の右弁解は俄に信用できない。
(二)被告人は、同月一三日に弁護人と接見した後、否認に転じ、その後同月二三日夕方まで否認を続けていたが、右否認に転じた理由について、被告人は、原審公判廷において、弁護人から、放火していないのであれば否認して争うように言われたことや、現住建造物放火は殺人の次に重い罪であり、執行猶予は付きにくい旨言われたこと、また、火災保険金のことを言われ、自分がそれを支払わなければならなくなると思ったので否認した等と述べている。右理由は、被告人が自白から否認に転じた理由としては一応の合理性を有するものであるが、そのことから当初の自白が虚偽のものであったと見ることはできず、むしろ、刑が自分の予想以上に重いものであることが分かったことや有罪となると多額の火災保険金の求償を請求されると考え、それを避けるために否認したとも考えられる。
(三)同月二三日、被告人は、吉瀬検事から取り調べを受けた際に、本件放火を再び認めるに至り、その後、起訴されるまで一貫して本件放火を認める態度を維持していたが、その理由について、被告人は、原審公判廷において、吉瀬検事から、自分を信じて頼ってくれる人に悪くはしないから私を信じなさいと言われ、また放火事件で執行猶予が付いた事例を紹介され、更に、「放火を認めることは家族に対して今は辛いかもしれないが、時が経てば家族の人たちも分かってくれる。子供も心配だろう。早く帰れる。」旨言われたことから、心身共に疲れていたこともあって本件放火を認め、その後は、会社の金を横領していたことは間違いないことから、一つ認めるも二つ認めるも同じだと思い、また、一旦認めた以上は何を言っても信じてもらえそうになかったので、後は裁判で争おうと考えた旨の供述をしている。しかしながら、被告人を取り調べた原審証人吉瀬信義の証言によれば、吉瀬検事は、自分が関与した放火事件等の事例を挙げながら情状がよければ執行猶予になる可能性もあることについて説明したこと、虚偽の自白を防ぐため、やっていないのにやったなどとは言わず、ありのままに述べるように再三言ったこと、家族のことが心配で自白できないのではないかと思われたので、被告人が家族のために横領し、その発覚を防ぐため切羽詰まってやむを得ず放火をしたというのであれば、それは家族も結局は理解してくれるのではないかと説得したこと等が認められるが、これらによれば同検事が被告人に対し自白を強要したり利益誘導をしたとはいえないこと、また、再度の自白をした後、弁護人や長男からやっていないなら否認して争うように言われたにもかかわらず、その後の取り調べにおいて自白を維持し詳しい供述をしていること等にかんがみると、被告人の右弁解は俄に信用することはできない。
3 第一次自白の信用性について
 
次に、被告人の自白内容の信用性について検討する。
 
原判決は、被告人の第一次自白の信用性について格別の検討をしていないが、被告人の第一次自白は、作為の入りにくい捜査の初期の段階の自白であること、本件放火に際し、被告人が放火材料が放火手段を特に準備した形跡が窺えないことに照らすと、第一次自白の内容も全くあり得ないものとまではいえないので、第二次自白と対比しながら検討することとする。
 
まず、放火の方法について、第一次自白は、「丙川」の外の水道メーターのところにあった毛布のようなボロ布を店内の中央におき、物置にあった新聞紙を細長く丸めて物置内の灯油缶に差し込み灯油を染み込まれて何回かボロ布等に振りかけ、店外の裏出入口近くに落ちていたマッチで火を付けたという内容となっている。しかし、既に検討したとおり、本件火災直後の理髪店「丙川」の店内中央部には、犯行に使用された毛布が置かれており、右毛布はかなり多量の灯油で湿潤していたことが認められるところ、灯油缶に新聞紙を丸めて差し込んで数回振りかける方法ではこのような状態にはならないと思われることから、右放火方法に関する第一次自白は信用できない。
 
次に、放火の動機について、第一次自白は、午前一時か二時ころふらっと家を出て赤色ミニクーパーを運転してドライブをし甲野ビルの前を通った際、ふと理髪店「丙川」の中に入って様子を見たくなり、甲野ビル二階の乙山建設工業の事務所内にある甲野ビルのマスターキーを使用して「丙川」の裏出入口の鍵を開けて店内に入り中の様子を見たが、雑然としている物置を見ているうち、それまで駐車場のことや飼い犬の糞の始末のことで「丙川」の奥さんに対して嫌悪感を持っていたことから、「丙川」を困らせてやろうと考え、火を付けてやろうと決意したというものである。しかしながら、右動機の説明は、日ごろから「丙川」の妻に嫌悪感を抱いていたとしても,被告人が勤務する乙山建設工業の税務調査が行われるその前夜に理由もなくドライブに出かけ、しかもその途中に「丙川」の店内を見てみたくなり、さらには放火まで何故しなければならなかったのかについての十分な説明はなく、いかにも唐突という印象を免れないし、被告人が、第二次自白及び原審公判廷において、逮捕された当初は、勤務先の会社の金を横領していたことはなんとしても隠そうと思い虚偽の動機を述べた旨供述していることが認められることに照らしてみても、第一次自白の放火の動機については、そのまま信用することはできない。
4 第二次自白の信用性について
 
次に、被告人の第二次自白の信用性について検討する。 
 
この点について、原判決は、第二次自白には、ぼろ布を発見した経緯、マスターキー、灯油及びマッチの準備状況等、犯人でなければ供述し得ないのではないかと思われる点も含まれているが、(1)本件放火に使用したというポリ容器の灯油の量についての供述が客観的証拠から認められる量と異なること、また、右ポリ容器の使用状況についての供述が不自然であること、(2)被告人は放火直後に「丙川」の裏出入口の鍵をかけないで出たと供述しているが、本件放火直後には右裏出入口の鍵はかかっていたものと認められること、(3)被告人が犯人であるならば、「丙川」の店舗内に当然足跡や指紋等が残留しているはずであるのに、被告人が犯人であることを示す客観的証拠は何もないこと、(4)被告人は事前に放火の用に供する材料を全く用意せず、確実な入手方法もないままに被害店舗に赴いているが、放火のために赴く者の行動としては不自然であること、(5)第二次自白の動機は合理性に疑問があること等を指摘して、第二次自白はその信用性に疑問があると判示している。そこで、原判示指摘の右各点について検討することとする。
(一)ポリ容器の灯油の量及びその使用状況についての供述について
 
原判決は、被告人の第二次自白は、犯行に使用したポリ容器の灯油の量は容器の三分の一位であったと思うというものであるが、本件火災消火後に行われた実況見分の結果等によれば、物置の出入口手前側のポリ容器には、灯油が本件火災発生前には容器一杯に入っていたのに火災発生後は半分に減っていたことが認められることから、右自白は客観的事実と食い違うものである旨判示している。確かに、被告人の平成四年七月二四日付け検察官調書(原審検四三)には原判決指摘の記載があるが、その一方で、被告人は同月二五日付け検察官調書(原審検四六)で「暗い中でかけたので、ポリ容器の中にどのくらいまで灯油が入っていてどのくらいかけたのかはっきりした量は分かりません。」との供述をしていることから、ポリ容器の灯油の量に関する被告人の供述はもともと明確なものではないことが認められ、むしろ、「丙川」の店舗内の物置内にあったポリ容器の灯油を相当量使用したという点では客観的証拠と一致していることが認められ、右灯油の量が明確でないことが被告人の第二次自白の信用性に影響を与えるものとはいえない。
 
また、原判決は、真犯人であるならば、物置の中でポリ容器を発見したときの容器の数、その周囲の状況、ポリ容器をどのようにして抱え上げ、取出したのか、ポリ容器を元の場所に戻した状況等について、具体的、詳細な供述がなされてしかるべきであるのに、そのような自白はなく不自然であると判示している。しかしながら、本件犯行当時、右物置内は暗い状態であったことが認められることから、物置内や周囲の状況等について具体的、詳細な供述がなされていないからといって特に不自然であるとまではいえず、また、行為状況を具体的、詳細に述べていないことが右自白内容の信用性に影響を与えるものともいえない。
(二)本件放火後、「丙川」の裏出入口の鍵をかけないで店外に出た点について
 
原判決は、被告人の第二次自白は、放火後、火の勢いが強くなり恐くなったので、駐車場側裏出入口の鍵をかけないまま店外に出た旨供述しているが、その直後、本件火災に気付いて右裏出入口を開けようとした原審証人Cの証言によると、鍵がかかっていて開かなかったことが認められ、右自白内容は客観的事実と食い違っていると判示している。
 
確かに、原審証人Cは、「表のシャッターが閉まっていたので裏に回ってドアを開けようとしたが開かなかった。ドアのノブに触った記憶があるが、ノブをひねったりしてはいない、そのまま引っ張った感じである。その後、もう一回表に回ってシャッターを開けようとしたが開かなかったので、裏に行ったら、もう管理人がいて既にドアは開いていた。」旨の供述をしている。しかし、甲野ビルの六階に居住していたEは、捜査段階及び原審公判廷において、「甲野ビル六階の自宅で就寝中、火災報知器のベルが鳴る音を開いて、同ビル一階の裏駐車場まで降りたが、火元がどこか分からなかった。この時、表の方から二人の男があわてて走ってきて表が火事だと叫んだので男達について表通りの方に走っていったところ、『丙川』が火事であることが判った。消火のため表口シャッターを開けようとしたが開かなかった。このときマスターキーを持ってきていないことに気付き、直ぐ自宅に戻りマスターキーを持ち出し、消火器を持って『丙川』の裏出入口に行き、マスターキーで裏出入口を開けた。このとき、裏出入口ドアを引っ張ることなくシリンダー錠にマスターキーを差し込んで右に回したが手応えがなく、左に回してもう一度右に回した。開いている状態のところにマスターキーを差し込んで左右に回し鍵を閉めてまた開けたという感じであった。冷静に考えると、裏出入口ドアのシリンダー錠ははじめから開いていたのではないかと思う。」旨の供述をしていることが認められる。
 
原判決は、Cの右原審公判供述を信用する一方、Eの右供述については、(1)道路側出入口には鍵を持たずに駆けつけた同人が、何故駐車場側出入口の様子を見ずに自室にマスターキーを取りに戻ったのか、その際、C、Bから裏出入口が施錠されて開かない旨聞いて戻ったのかどうかについての説明がないこと、(2)甲野ビルの管理人であるEが、同ビル内の店舗のドアが施錠されているかどうか鍵を差し込んでも分からなかったというのは不自然であること、(3)右供述は、一方で鍵を開けて店内に入ったとしながら、他方で開いていたのを一旦閉めて再度開けた感じがしたという曖昧なものであることを理由にその信用性を否定し、本件火災発生直後、理髪店「丙川」の裏出入口ドアの鍵は施錠されていたと認定している。
 
しかしながら、Cの右原審公判供述は、理髪店「丙川」の裏出入口ドアには棒状の取っ手しか付いていないのにドアのノブに触った旨供述していること、当時、そのドアはかなり力を入れないと開かない状態であったこと(Aの検察官調書〔原審検二二九〕)、Cは捜査段階においては、「正面入り口のシャッターを開けようとしたが開かず、東側路地から裏に回ったところ、ビル内側階段から男の人が出てきたので、火事であることを教え、その男を正面に連れていったが、開かなかったので再び裏側に回ったところ、裏出入口ドアは開けられていた。」旨供述しており(Cの検察官調書〔原審検一二〕)、前記原審公判供述とは一致していないこと等に照らすと、本件火災発生当時、裏出入口ドアは施錠されていた旨のCの右原審公判供述は必ずしも信用することができない。これに対し、Eは、本件火災発生当日から同趣旨の供述をしており(Eの警察官調書〔原審検一五〕)、その内容も曖昧な点を含めて記憶のままに述べていることが認められ、当審公判供述においても右供述内容はそのまま維持されていること、原判決が指摘する(1)の点は、表側シャッターを開けようとしたが開かなかったことや深夜であったことから、裏側出入口ドアも当然施錠されていると思い込んだことによるものであり(Eの当審公判供述)、裏出入口ドアの施錠の有無を確認しないままに自宅にマスターキーを取りに戻った点に特に不自然、不合理な点はないこと、(2)の点は、甲野ビルの管理人であるとはいえ、他人の店舗の裏出入口ドアの鍵の施錠状態のことである上、当時は火災発生の慌てている状態であったことにかんがみると、鍵が開いた状態であったのに気が付かず、ガチャガチャと左右に回して開けたというのも特に不自然とはいえないこと、(3)の点も、供述全体の趣旨に照らし内容的に矛盾するものではなく、むしろ断定できない点は断定せずにそのまま供述しているものと理解できること等にかんがみると、Eの前記供述は信用性が高いものと認められる。
 
そうすると、原審証人Cの右証言からは、本件火災発生直後に「丙川」の裏出入口の鍵が施錠されていたとは断定できず、むしろ、原審及び当審証人Eの各証言によれば、右裏出入口の鍵は開いていたものと思われることから、被告人の第二次自白と客観的事実との間には食い違いは認められない。
(三)「丙川」店舗内に被告人が犯人であることを示す客観的証拠がないこと
 
原判決は、被告人の第二次自白によれば、被告人は自己の犯行の発覚を防止するため格別現場痕跡を消すような行動をとっていないから、被害店舗内に被告人の指紋あるいは足跡などが遺留されている筈なのに、本件においては被告人が犯人であることを示す物的証拠は残されてなく、不自然というほかなく、被告人の第二次自白の信用性は疑わしい旨判示している。しかしながら、本件火災により理髪店「丙川」の店舗内は、火災の火力により床、壁、天井等が相当損傷しており、また、消火活動の際の消火器の使用、放水等による影響を受け、また、消火活動のためC、B、Eをはじめとして多数の人間が右店舗内に入って動き回ったため荒らされていることが証拠から認められ、これによれば、火災現場である「丙川」の店舗内から被告人の指紋や足跡等が検出されなかったとしても特に不自然であるとはいえない(火力や消火活動による影響を比較的受けなかったものと見られる物置内のポリ容器からも被告人の指紋等が検出された形跡はないが、ポリ容器の材質や表面の粗滑の状況によっては指紋等が残らないこともありうることであって、特に不自然とはいえない。)。そうすると、右店舗内に被告人が犯人であることを示す客観的証拠がないことをもって被告人の第二次自白内容が信用できないとはいえない。
(四)放火の用に供する材料を事前に準備しなかった点について
 
原判決は、被告人は自宅で本件犯行を決意したにもかかわらず、事前に放火の用に供する材料を全く用意せず、その確実な入手方法もないままに被害店舗に赴いているが、放火の確実実行を期するという意味において不自然であり、何故このような方法によったかについての具体的説明もないことに照らすと、自己が犯人であるとする自白の信用性にも疑問が残る旨判示している。しかしながら、原審において取り調べた関係証拠によれば、被告人が税務調査があることを知ったのは本件火災発生の約五日前であり、以後右税務調査により自己の横領行為が発覚することを恐れてあれこれ悩んでいたものの本件火災発生日までは甲野ビルに放火することを考えたことはなかったこと、本件放火を決意したのは放火行為の約一時間から二時間前の午前一時から午前二時ころの深夜であり、それも冷静に判断して決めたものではなく悩んだ末に突発的に決意したものであること、放火に使用するマッチ等を特に持っていかなかったのは、放火しようと考えたのが理髪店であり、当然客用のマッチ等があるものと思ったからであり、仮になかったとしても、勤務先の乙山建設工業の事務室にはマッチがあることを知っていたことから支障はなかったものであること等の事実が認められ、これらによれば、本件放火は事前に冷静に判断した上で実行に移したものではなく、突発的に思いついて実行したものであり、事前に放火の用に供する材料を準備せず、成り行き次第に任せたとしても特に不自然ということはできない。
(五)放火の動機、目的についての自白内容について
 
原判決は、被告人の第二次自白中の本件放火の動機は、本件火災当日実施される予定の税務調査によって自己の業務上横領行為が発覚することを防ぐため税務調査の実施を妨害することにあったというものであり、それ自体は放火の動機として合理性があるようにもみえるが、更に検討すると、被告人の目的は被害店舗で火事騒ぎを起こして当日の税務調査を延期させる程度であったところ、被告人の供述内容に照らすと火勢の調節が困難であり重大な結果が生じるおそれがあったことなどを考慮すると、その犯行態様と右目的の間には若干の飛躍がある旨判示している。しかしながら、本件放火の対象となったのは乙山建設工業の事務所ではなくその下の階の理髪店であること、原審で取り調べた関係各証拠によれば、本件甲野ビルは耐火構造であり、もともと上の階への延焼の可能性は少なかったことが認められ、これらによれば、犯行態様と被告人の目的との間に問題となるような飛躍があるものとは認められない。
 
また、原判決は、被告人の横領行為は昭和六三年ころから行われているところ、同年及び平成元年に行われた税務調査の際には右横領は発覚していないことにかんがみると、そもそも税務調査を妨害する必要性があったか疑問である旨判示している。しかし、原審で取り調べた関係各証拠並びにIの当審公判供述及び検察官調書(当審検一九)によれば、被告人が入社した昭和六〇年三月以降乙山建設工業が税務調査を受けたのは昭和六三年一月ころの一回のみであることが認められ、その際には被告人の横領が発覚しなかったことが認められるが、被告人が横領を開始したのは昭和六三年ころであり、そのころはまだ横領額が少額であったのに対し、平成四年五月一一日に予定されていた今回の税務調査のときには被告人の横領額も一〇〇〇万円以上の多額なものに達しており、それだけ発覚の危険性は高く、とりわけ被告人の横領行為は勤務会社の銀行口座の取引状況と会社の帳簿等を対照すれば比較的容易に発覚する態様のものであり、被告人自身原審公判廷において税務調査で被告人の横領行為が発覚するのではないかと危惧していた旨自認していること等にかんがみると、被告人において平成四年五月一一日の税務調査の実施を何とか妨げたいと考えても不思議ではなく、その一方法として税務調査の対象である乙山建設工業の事務所のある甲野ビルに放火して騒ぎを起こそうと考えたことをもって必ずしも不自然であるとばかりはいえない。
 
以上によれば、原判決が、被告人の第二次自白の信用性を否定する理由として指摘している諸点は、いずれも正鵠を射たものとはいえず俄に首肯しがたいというべきである。
 
その他、弁護人が指摘する諸点を踏まえて被告人の第二次自白の内容を検討しても、特に不自然、不合理な点は認められず、また、客観的証拠と矛盾する点も見あたらず、かえって右自白には犯行に用いた毛布を発見した経緯、マスターキーの使用状況、本件放火に供した灯油及びマッチの入手状況等、犯人でなければ供述し得ないのではないかと思われる点も含まれていることから、その内容は大筋において信用できるものということができる。
五 理髪店「丙川」の店舗内にあった灯油について
1 倉庫内のポリ容器内の灯油について
 
本件火災直後の実況見分によれば、理髪店「丙川」裏出入口を入ってすぐ西側の物置内に灯油が半分程入った一八リットル用ポリ容器二個があり、うち、手前の物置の入口に近いポリ容器の上には健康飲料の箱二個、ティシュの箱が積まれており、奥の方に置かれたポリ容器の上にはティシュの箱や重ねた数脚の椅子が載せられていた。
 
同理髪店経営者Aは、捜査段階(Aの警察官調書〔原審検二三〕)及び原審公判廷において、本件火災の前には、入口に近いポリ容器には灯油が一杯に入っており、奥のポリ容器には半分位入っていた旨供述し、同店従業員Jも捜査段階において同趣旨の供述をしている(Jの警察官調書〔原審検三四〕)。原判決は、Aが、手前のポリ容器の位置について、実況見分の際や捜査段階では火災の前後で変わっていない旨供述していたが、原審公判廷では火災後右ポリ容器の置かれていた位置に変わりはないがその置き方が少し変わっていた旨の供述をしている点を捉えて、Aの原審公判供述は捜査段階の供述と内容の一貫性を欠き必ずしも信用できないというのであるが、右原審公判供述も仔細にみると、右ポリ容器の置いてある向きが約九〇度変わっていたというもので、その置いてある位置については捜査段階における供述と格別変わっていないのであって、実況見分の際の説明及び捜査段階の供述は、捜査の初期の段階で、まだ被告人の放火についての自白がなく倉庫内の灯油の入ったポリ容器の位置や置いてある向きが重要視されていない時期のものであるのに対し、原審公判廷の供述は被告人が倉庫内のポリ容器の灯油を犯行に使った旨自白した後にそのポリ容器の置かれていた所在位置や置き方がより詳しく供述されたものであり、供述が不自然に変遷したとはいえず、信用できないとはいえない。
2 洗面台の下のコーラ瓶入りの灯油について
 
また、本件火災直後の実況見分によれば、理髪店「丙川」の店舗内の洗面台下の扉の中に、理髪職人がバリカンを洗浄する際に使用する混合油(一対一の比率でガソリンと灯油を混ぜたもの)を作るために等量のガソリンと灯油が用意されており、そのうちファンタの一リットル瓶には約三分の一のガソリンが残っていたのに対し、コーラの一リットル瓶の灯油は空になっていたことが認められることから、右コーラ瓶の中に入っていた灯油が本件犯行に使用されたのではないかとの疑いも生じる。しかし、この点について、証人Aは、当審公判廷において、本件火災発生当時は、暖房のために石油ストーブ用の灯油をポリ容器に入れて常備していたので、混合油を作るときにはそのポリ容器から直接灯油を取出して使用していたので、洗面台の下のコーラの空き瓶には灯油を入れてなかったと思うと述べており、洗面台下のコーラ瓶内の灯油が空になっていたからといって、右灯油が本件放火に使用された可能性は少ないものと考えられる。
3 右の検討結果によれば、倉庫内手前に置かれていたポリ容器内の灯油が犯行に使用されたものと推認でき、これは被告人の第二次自白の内容とも符合するものであり、同自白の信用性を担保しているといえる。
六 本件火災直前の理髪店「丙川」の施錠状況、同店の鍵及び甲野ビルのマスターキーの管理状況、右各鍵を使用できる人物の本件火災発生当時の所在状況について
1 本件火災直前の理髪店「丙川」の施錠状況について
(一)理髪店「丙川」の出入口の状況について
 
理髪店「丙川」には二箇所の出入口があり、南側の表出入口は自動シャッターが設置されていて店内からのスイッチ操作により電動で開閉する仕組みになっている。同店北側の裏出入口のドアは、店舗外側からみると右側に棒状の取っ手が付いており、取っ手の下方にシリンダー旋が設置され、同ドアは外開きになっている。
(二)本件火災直前の理髪店「丙川」の施錠状況について
 
本件火災発生前日の営業終了後の午後八時一五分ころ、理髪店「丙川」の従業員らが帰宅するに際し、従業員Jは表出入口ドアが施錠されていることを確認し、同出入口外側の自動シャッターを降ろし、裏出入口ドアを施錠し取っ手を引っ張るなどして施錠されていることを確認した上で帰宅した。
 
このように、理髪店「丙川」は、営業終了後、各出入口は施錠され、表出入口シャッターも降ろされていたことから、密室状態であったことが認められる。そして、表出入口シャッターは火災当時閉まっていたことが確認されているが、前記三の3(二)で検討したとおり、裏出入口ドアは無施錠であった可能性が高く、同ドア周辺にはこじ開けた痕跡がないことから、犯人は合い鍵等を使って裏出入口から侵入したものとみられる。そうすると、右事情は、被告人の第二次自白内容と符合し、同自白の信用性を担保するものと認められる。
2 丙川の裏出入口ドアの鍵の管理状況について
(一)理髪店「丙川」の裏出入口ドアの鍵は四本あり、経営者A、従業員K、同Jが各自一本ずつを所持し、家主である乙山建設工業が一本預っている。従業員K、同Jは、本件火災発生前の平成四年五月一一日午前一時過ぎに右理髪店の寮である久留米市荒木町《番地略》所在の丙田アパート一階二号室に帰宅し、本件火災発生時間である午前三時ころは同アパートで就寝していた。また、経営者A及びその妻L子は、同月一〇日午後一〇時ころ久留米市荒木町《番地略》所在の自宅に帰宅し、翌日午前三時過ぎころまでテレビを見た後就寝した。
(二)甲野ビルのマスターキーは三本あり、乙山建設工業株式会社代表取締役Mが福岡県三潴郡《番地略》所在の自宅に一本保管し、同社常務取締役Eが甲野ビル六階六〇二号室の自宅に一本保管し、残りの一本は、同社総務部長Iが、他の鍵と共に黒皮ホルダーにつけ甲野ビル二階の乙山建設工業株式会社事務所内の台所流し台の扉の裏側に設置した鍵掛けに掛けて保管している。この同社事務所内台所流し台に保管してあるマスターキーの存在を知っていて扱えたのは、E、I、同社経理係事務員O子及び被告人の四人である。本件火災発生当時、M及びEはいずれも右各自宅で就寝しており、Iは福岡県三潴郡《番地略》所在の自宅で就寝しており、O子も福岡県小郡市《番地略》所在の自宅で就寝していた。
(三)以上によれば、本件火災発生当時、理髪店「丙川」の裏出入口ドアの鍵を開けることができる鍵を所持していた者、甲野ビルのマスターキーの所持者及び甲野ビル内のマスターキーの所在場所を知っていて扱える者のうち、被告人を除いた者はいずれも自宅にいたことが認められる。また、本件全証拠を検討しても、被告人以外の理髪店「丙川」の関係者であるA、L子、K、J及び乙山建設工業関係者のM、E、I、O子らには、理髪店「丙川」に放火する動機を認めることができない。そうすると、本件火災発生当時、理髪店「丙川」の裏出入口ドアの鍵を開けることができた人物で現場近くにいたのは被告人しかおらず、かつ、被告人には既に検討したとおり理髪店「丙川」に放火する動機を認めることができることから、本件放火の犯人である可能性が極めて高いといわざるを得ない。

 なお、被告人は、当審公判廷において、右四人以外にも同社の事務所に出てくる社員であれば右マスターキーの存在、保管場所を知っている旨の供述をしているが、右供述は仔細にみると具体的に誰が知っていて使用していたのか曖昧である上、同社の総務部長のIは、労審公判廷において、同社事務所台所流し台に保管しているマスターキーは普通の人にはマスターキーとは分からないものであるし、現場の人間はマスターキーにタッチすることはなく、右マスターキーを扱えるのは前記四人である旨明確に供述していることに照らすと、被告人の右供述は俄に信用することはできない。
七 五月一一日朝の被告人の出勤状況について
 
G子の当審公判供述及び被告人の原審公判供述によれば、本件火災発生後の平成四年五月一一日午前八時四五分過ぎころ、被告人は、出勤直前のG子の自宅に「Eのところに電話をしたところ甲野ビルが火事だと聞いたので電話した。被告人の子どもの腹具合が悪いので仕事に出るのが少し遅くなる。」という内容の電話をかけてきたこと、G子は出勤前で忙しかったので数分で電話を切ったが、それまで出勤前の時間帯に被告人からG子へ電話がかかってきたことはなかったこと等が認められるところ、被告人が、G子の出勤時間帯というそれまで電話をしたことない時間に、しかも本件火災発生当日に何故わざわざ電話したのかが問題となる。この点について、被告人は、原審公判廷において、甲野ビルのところで男の人と会ったとき車のナンバーを見られた様子なので必ず警察が車のことで調べにくると思い、G子に夜G子方を訪ねたことにしてくれとお願いしようと考えたが,G子に迷惑がかかると思い言わなかった旨供述している。しかし、被告人がG子に電話したときは、警察の捜査は開始されたばかりで、実況見分もまだ行われておらず、本件火災が放火か失火のいずれであるかも不明であったのであるから、被告人が犯人でないなら前記のようなことを考える必要性などなかったはずであり、右説明は不自然といわざるを得ず、かえって、被告人が放火犯人であることを示すものといえる。
 
また、被告人は、G子との右電話の際に、G子から夜甲野ビルに来ていないか聞かれて「来た。」と答えたところ、赤い車では来ないほうがいいと言われたので、当日は重い帳簿等を紙袋に入れて電車で出勤したというのである。しかし、被告人の言によれば、帳簿等を自宅に持ち帰っていたのでその日は車で出勤しようと考えていたというのであるから、放火犯人でないならば赤い車での出勤は取りやめても当時被告人方にあった別の色の車で出勤することも出来たのに、右のような電話での会話があったことから直ちに電車で出勤したのは不自然であり、ひいては被告人が本件火災の前に重い書類等を持ち帰っていた旨弁解するところの真実性にすら疑いを生ぜしめるものである。 
 
なお、被告人は、当審公判廷において、G子に電話した時間は午前七時一〇分ころである旨供述し、また、検察官は、同日午前八時九分ころには被告人は乙山建設工業事務所に出勤していた旨の主張をしているが、G子の前記供述に照らして、いずれも俄に採用しがたい。
八 久留米警察署留置場で被告人と同房であったD子の供述について
 
検察官は、久留米警察署留置場で被告人と同房であったD子は、検察官調書において、被告人がD子に対し本件放火をした旨の告白をした旨の供述をしており、右検察官調書は信用できるものであるのに、原判決が、右検察官調書は検察官の取調に迎合し誘導された疑いがあり信用できないと判示しているのは誤っている旨の主張をしている。
 
そこで、検討するに、D子の平成四年七月二三日付け検察官調書(原審検一〇九)中には、D子は、久留米警察署に勾留されていた平成四年七月八日夜から同月一三日朝まで被告人と同房であったが、被告人は、D子に対し、同月九日の昼間には、「こんな事件を起こして主人は許してくれないだろう。」、同日夜には、「私がここに来たのは放火じゃん。甲川のテナントの奥さんにものすごくいじめられたから夜火をつけた。私が火をつけたところは三つ並んでいるところで、新聞に灯油をまいて火をつけたらぼーっと燃え上がって、それで慌てて足で踏んで消した。マスターキーでドアを開けて入った。出会い頭に女の人と目があった。車のナンバーもみられたやろう。燃えとったじゃん。黒い煙が出とった。」
旨話し、それを聞いたD子は被告人が放火したことは間違いないと思った旨の供述記載がある。右供述内容は、詳細かつ自然なものであり、平成四年七月九日までに供述された被告人の自白内容とほぼ同じ内容であり、放火の態様、放火後の状況等も、客観的証拠から認められる事実と特に矛盾していないことが認められる。原判決は、D子の右供述内容は、被告人が同月二三日に自白した内容と異なること、被告人の同日付け検察官調書を作成したのと同じ検察官により作成されたものであること、D子が原審公判廷において被告人から聞いた内容についてほとんど供述できなかったこと等から、D子の右検察官調書は、検察官の取調に迎合し誘導された疑いがあり信用できないと判示している。しかし、D子の右検察官調書は、同じ日に被告人を取り調べた検察官(吉瀬検事)とは異なる検察官(野村検事)により作成されたものであり、また、D子は、原審公判廷において、被告人から聞いた放火の動機、方法等についての詳しい内容をほとんど供述していないものの、久留米警察署留置場で同房になった最初のころ被告人から放火したと聞かされ本当のことだと思ってびっくりしたとは述べているのであり、右公判期日(平成五年四月二二日)は被告人から聞いたときから約九か月経過後で記憶が薄れることもあり得ること、その後被告人が否認していることを知ったD子が被告人に不利益になると思われる供述を避けたとも考えられること、その他本件全証拠によるもD子の検察官調書が検察官の取調に迎合したり誘導により作成されたものであることを認めるに足りる証拠はないこと等にかんがみると、D子の右検察官調書が信用できないとは言えない。この点についての原判決の判断は肯認できない。
九 本件火災発生直後に被告人所有車両(赤色ミニクーパー)に灯油の残臭があったかどうかについて
 
検察官は、当審において、本件火災発生直後である平成四年五月一一日午前八時ころ、被告人は、柳川市蒲池所在のガソリンスタンドに赴き、経営者Pに対し、油のような臭いがするので見て下さいと赤色ミニクーパーの点検を依頼し、その後、Pが点検したところ油のような臭いは灯油の臭いであることが判ったが、本件放火には灯油が使われており、本件火災発生直後に火災現場近くから走り去った赤色ミニクーパー内に本件火災発生から約五時間後に灯油の残臭が残っていたことは、被告人が放火犯人であることを強く疑わせるものである旨の主張をしている。
 
しかしながら、Pの当審公判供述及び検察官調書によれば、被告人が赤色ミニクーパーに油のような臭いがするから点検してくれと依頼してきたのは、本件火災後から被告人が逮捕される(平成四年七月八日)までの間である旨供述するものの、本件火災発生日である同年五月一一日であるとは供述していないこと、また、本件火災発生直後、甲野ビル前の道路で被告人と話をしたBとCは、赤色ミニクーパー内に灯油等の臭いはしていなかった旨供述していること、更に、被告人は本件火災現場近くでBらに赤色ミニクーパーを運転しているところをみられ、自己が警察から疑われるのではないかと考えていたことが認められるから、本当に赤色ミニクーパーに灯油の残臭が残っていたらそれを隠すのが普通であり、わざわざ右残臭を他人に消去させ更に疑われるような行動をするとは考えにくいし、被告人が本件火災発生日の朝P経営のガソリンスタンドに赤色ミニクーパーを運転していったことを認めるに足りる確たる証拠はないこと等にかんがみると、検察官の右主張は俄に採用しがたい。
一〇 結論
 
以上の検討結果によれば、被告人の供述を除く客観的証拠から認められる前記諸般の事情を考慮すると、被告人が本件放火の犯人であることが強く推認され、加えて、被告人が本件放火をしたことを認める前記第二次自白の内容が十分信用でき、これを否定する原審及び当審公判廷における被告人の弁解が信用できないことを総合考慮すると、被告人が本件放火の犯人であることを優に認めることができ、これを否定して被告人を無罪とした原判決の判断は、証拠の評価を誤り事実を誤認したものであり、右誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、検察官の論旨は理由があり、原判決中非現住建造物等放火の公訴事実に関する部分は破棄を免れない。
第二 弁護人の控訴趣意について
 
弁護人の所論は、要するに、原判決は、業務上横領被告事件につき「乙山建設工業株式会社の経理事務員であった被告人が、(1)原判決別紙犯罪一覧表(一)記載のとおり、平成三年九月一九日ころから平成四年六月二五日ころまでの間、前後二二回にわたり、株式会社戊原銀行津福支店の右乙山建設工業株式会社の普通預金口座から預金の払い戻しを受け、同社のために業務上預かり保管中、いずれもそのころ右乙山建設工業の事務所において、右預り金から合計約一六三二万二九五五円を自己の用途にあてるため着服横領し(原判示一の事実)、(2)同別紙犯罪一覧表(二)記載のとおり、平成三年九月二五日ころから平成四年二月二五日ころまでの間、前後六回にわたり、株式会社乙原銀行城島支店の右乙山建設工業株式会社の普通預金口座から預金の払い戻しを受け、同社のために業務上預かり保管中、いずれもそのころ、同支店において、右預り金合計七八万円を自己の財形住宅貯蓄保険料として住友生命保険相互会社の預金口座宛に振込送金して横領し(原判示二の事実)、(3)平成四年三月二日ころ、前記乙山建設工業株式会社事務所において、不動産賃貸料として支払いのあった現金五八万五〇〇〇円を同会社のために業務上預かり保管中、そのころ右事務所において、右預り金のうち二二万円を自己の用途にあてるため着服横領し(原判示三の事実)、(4)平成四年三月一〇日ころ、前同所において、雑工事代金等として支払いのあった現金六一万五九四〇円を前記会社のため業務上預かり保管中、そのころ同所において、自己の用途にあてるため着服横領した(原判示四の事実)」と認定判示したが、被告人は原判示一の別紙犯罪一覧表(一)の番号1、3ないし5、8、
9、20については戊原銀行津福支店の乙山建設工業名義の普通預金口座から預金引出自体をしておらず、引出された預金の処理にも関与していない、被告人が不正な方法で乙山建設工業の金員を引き出したのは別紙犯罪一覧表(一)のうち番号2、6、7、10ないし19、21、22(合計九九一万二九五五円)、同表(二)の番号1ないし6(合計七八万円)の合計一〇六九万二九五五円にすぎず、しかも、この金額のうち、被告人が横領したのはそのうちの五八〇万円程度である、被告人はE社長らに命じられて会社が業者や政治家に渡す領収証の取れない金員(裏金)を現金の形で管理しており、右一〇六九万二九五五円と五八〇万円程度との差額約四九〇万円は乙山建設工業のために裏金として使われたものである、したがって、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある、というものである。
 
そこで、原判決挙示の関係各証拠を検討すると、原判示一の事実のうち別紙犯罪事実一覧表(一)の番号2の業務上横領額について、原判決は公訴事実記載のとおり二〇万八〇九一円と認定しているが、証拠上被告人が着服横領したと認定できるのは一三万二一〇〇円の限度であり、それを超える部分については認定できるだけの十分な証拠がなく、また、同表の番号15及び17の各業務上横領行為(合計一二万円)については、当審に至って検察官がこれらを公訴事実から削除する内容の訴因変更を申し立てこれが容れられたため審判の対象から外れるに至ったが、その余の原判示の各業務上横領行為はいずれも優に認めることができ、これらは全体が包括一罪となるところ、右事実誤認にかかる業務上横領額及び訴因から除かれた業務上横領額の合計額は原判決が認定した横領額合計一七九三万八八九五円のうちの一九万五九九一円にすぎないことにかんがみると、右事実誤認及び訴因縮少は判決に影響を及ぼすものとは認められない。以下、所論にかんがみ、補足して説明する。
一 本件犯行当時の乙山建設工業株式会社の経理事務全般について
 
まず、本件犯行当時の乙山建設工業の経理事務の状況についてみるに、原判決挙示の関係各証拠によれば、本件犯行時の乙山建設工業の経理事務は経理主任である被告人及びその補助者であるO子が担当し、O子に任されていた事務は、手許保管金三万円を限度とする各種支払い、雑小工事代金、賃貸家賃収受という小口現金の出納等に限られており、大口現金の出入金、銀行の払戻請求書の記入、振替伝票等の記載・保管等は被告人に任されていたこと、被告人の経理事務に関する会社の監督は、関係帳簿の記載等を形式的に照合する程度のものに止まっていたこと等の各事実が認められる。
二 弁護人が被告人の関与自体を否定する原判示一の別紙犯罪一覧表(一)番号1、3ないし5、8、9、20について
1 別紙犯罪一覧表(一)の番号1(平成三年九月一九日ころの六〇万円)について
 
所論は、被告人が平成三年九月一九日ころに戊原銀行津福支店の乙山建設工業株式会社代表取締役M名義の普通預金口座(以下、「乙山建設工業の普通預金口座」という。)から六五万円を引出したこと自体を否定し、業務上横領の事実はなかったものと主張する。

 しかしながら、関係各証拠によれば、被告人は、捜査段階において、同日ころ、戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から六五万円を引き出し、その中から五万円を仮払金として乙山建設工業のために支出し、残り六〇万円については、同日ころに戊原銀行津福支店の被告人名義の口座に二三万円を預金し、三七万円を手持ち現金として自己のために着服横領した旨供述していること(被告人の警察官調書〔原審検八六号〕)、客観的証拠によれば、同日、戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から六五万円が引出されたこと(証拠品及び資料の複写に関する報告書〔原審検六〇〕)、乙山建設工業の従業員Nに五万円の仮払金が支払われたこと(証拠品の謄本作成に関する報告書〔原審検五九〕)、戊原銀行津福支店の被告人名義の普通預金口座に二三万円が預金されていること(捜査関係事項照会回答書〔原審検七四〕)等の各事実が認められ、被告人の右供述の信用性を裏付けていること、被告人は、原審公判廷において、右六五万円の払戻請求書の筆跡はO子の筆跡である旨供述しているが、原審証人O子は自己の筆跡ではない旨明確に証言していること等から、被告人の右供述は俄に信用できないこと、また、当時、被告人が個人的に二三万円もの金銭を持ち合せていた事実を認めることはできないから、戊原銀行津福支店の被告人名義の普通預金口座に振り込まれた右金員は乙山建設工業の普通預金口座から引き出したものの一部であると考えるのが自然であること等の各事実が認められ、これらよれば、被告人が、平成三年九月一九日ころに、戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から六五万円を引出し、そのうちの二三万円を同支店の被告人名義の普通預金口座に振り込み、三七万円を手許に保管した事実を優に認めることができる。そして、被告人がこのように乙山建設工業の金員をほしいままに自己の名義で預金する行為は、特段の事情のない限り(後に述べるとおり右特段の事情の存在は認められない。)、預金した時点において不法に領得し着服横領したものと解するのが相当であり、また、これと同時に被告人が自己の管理においた三七万円についても、被告人がいつでもほしいままに使用できる状況においたものであるから、右管理下においた時点で着服横領したものと解するのが相当である。そうすると、被告人が、平成三年九月一九日ころに、戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から六五万円の払い戻し受け、業務上預かり保管中、右預り金から六〇万円を自己の用途にあてるために着服横領したことが優に認められる。
2 別紙犯罪一覧表(一)の番号3(平成三年一〇月八日ころの四〇万円)について
所論は、被告人が平成三年一〇月八日ころに戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から四〇万円を引出したこと自体を否定し、業務上横領の事実はなかったものと主張する。
 
しかしながら、関係各証拠によれば、被告人は、捜査段階において、平成三年一〇月八日ころ、戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から四〇万円を引き出し、これを手持ち現金とした旨供述していること(被告人の警察官調書〔原審検八六〕)、客観的証拠によれば、同日に戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から四〇万円が引出された事実が認められ(証拠品及び資料の複写に関する報告書〔原審検六〇〕)、被告人の右供述の信用性を裏付けていること、被告人は、原審公判廷において、右四〇万円の払戻請求書の筆跡は自分の筆跡でない旨供述しているが、原審証人O子は自己の筆跡ではない旨明確に証言しており、銀行の払戻請求書の記入は被告人に任されていたこと等にかんがみ、被告人の右供述は俄に信用できないこと、本件当時、O子が乙山建設工業の金員を横領していた証跡はなく、むしろ、被告人は、本件当時、乙山建設工業の銀行口座から金員をほしいままに引き出しては手元に多額の現金を保管し、自己の用途に費消したりしていたことが窺われること等の各事実が認められ、これらによれば、被告人が、平成三年一〇月八日ころに、戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から四〇万円を引出し、それを手許に保管した事実を優に認めることができ、右手許に保管した時点で着服横領したものと解するのが相当である。そうすると、被告人が、平成三年一〇月八日ころに、戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から四〇万円の払い戻しを受け、業務上預かり保管中、右預り金を自己の用途にあてるために着服横領したことが優に認められる。
3 別紙犯罪一覧表(一)の番号4(平成三年一〇月九日ころの一〇〇万円)について
 
所論は、平成三年一〇月九日ころに戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から引き出された金員のうちの一〇〇万円はO子が管理したものであり、被告人は右金員の管理に関与していないと主張する。
 
しかしながら、関係各証拠によれば、被告人は、捜査段階において、平成三年一〇月九日ころに戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から一三二万四八六二円を引き出し、Q税理士に対する報酬料三一万五〇〇〇円、仮払い消費税九四五〇円、振込手数料四一二円を支払い、残額一〇〇万円を手持ち現金として着服し、翌々日の同月一一日に、この中から三〇万円を戊原銀行大牟田支店の被告人名義の普通預金口座に預金した旨供述していること(被告人の警察官調書〔原審検八六〕)、客観的証拠によれば、同月九日に戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から一三二万四八六二円が引き出されたこと(証拠品及び資料の複写に関する報告書〔原審検六〇〕、当審第六回公判調書中の証人O子の証人尋問調書添付の払戻請求書写し)、同日に戊原銀行津福支店において戊原銀行荒木支店のQ税理士の普通預金口座に仮払い消費税を含み三二万四四五〇円が振り込まれていること(証拠品及び資料の複写に関する報告書〔原審検六〇〕)、同月一一日に戊原銀行大牟田支店の被告人名義の普通預金口座に三〇万円が入金されていること(捜査関係事項照会回答書〔原審検七六号〕)等の事実が認められ、被告人の右供述の信用性を裏付けていること、被告人は、原審公判廷において、右一三二万四八六二円の払戻請求書の筆跡は自分の筆跡でない旨供述しているが、原審及び当審証人O子は被告人の筆跡である旨明確に証言しており、被告人の右供述は俄に信用できないこと、当時被告人は、乙山建設工業の口座から無断で引き出した多額の現金等を自己の手元に置き、この中からほしいままに費消していたことが窺われること等の各事実が認められ、これらによれば、被告人が、平成三年一〇月九日ころに、戊原銀行津福支店の甲野建設工業の普通預金口座から一三二万四八六二円を引き出し、三二万四四五〇円を戊原銀行荒木支店のQ税理士の普通預金口座に振り込み、振込手数料四一二円を支払い、残金を自己の手許に保管した事実を優に認めることができ、右手許に保管した時点で着服横領したものと解するのが相当である。そうすると、被告人が、平成三年一〇月九日ころに、戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から一三二万四八六二円の払い戻しを受け、業務上預かり保管中、右預り金のうち一〇〇万円を自己の用途にあてるために着服横領したことが優に認められる。
4 別紙犯罪一覧表(一)の番号5(平成三年一〇月一六日ころの五〇万円)について
 
所論は、平成三年一〇月一六日ころに戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から引き出された五〇万円について、被告人は右払い戻し手続に関与しておらず、業務上横領行為をしていないと主張する。
 
しかしながら、関係各証拠によれば、被告人は、捜査段階において、平成三年一〇月一六日ころに戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から引き出した五〇万円につき、同日戊原銀行大牟田支店の被告人名義の口座に四〇万円預金し、一〇万円を手持ち現金とし、右手持ち現金の中から同月二一日ころに戊原銀行津福支店の被告人名義の普通預金口座に一〇万円を預金した旨供述していること(被告人の警察官調書〔原審検八六〕)、客観的証拠によれば、同月一六日に戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から五〇万円が引き出されていること(証拠品及び資料の複写に関する報告書〔原審検六〇〕)、同日に戊原銀行大牟田支店の被告人名義の普通預金口座に四〇万円が入金されていること(捜査関係事項照会回答書〔原審検七六〕)等の事実が認められ、被告人の右供述の信用性を裏付けていること、右五〇万円の払戻請求書の筆跡につき、原審証人O子は自己の筆跡ではない旨証言し、被告人は原審公判廷において自己の筆跡であることを認めていること等の事実が認められ、これらによれば、被告人が、平成三年一〇月一六日ころに、戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から五〇万円を引き出し、業務上保管した事実を優に認めることができ、そのうち四〇万円については、前同様同日ころ戊原銀行大牟田支店の被告人名義の普通預金口座に入金した時点で、残金一〇万円については、被告人の手許に保管した時点で着服横領したものと解するのが相当である。そうすると、被告人が、平成三年一〇月一六日ころに、戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から五〇万円の払い戻しを受け、業務上預かり保管中、これを自己の用途にあてるために着服横領したことが優に認められる。
5 別紙犯罪一覧表(一)の番号8(平成三年一二月九日ころの二五二万円)について
 
所論は、平成三年一二月九日ころに戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から引き下ろされた二五二万円について被告人は関与しておらず、業務上横領行為をしていないと主張する。
 
しかしながら、関係各証拠によれば、被告人は、捜査段階において、平成三年一二月九日ころに戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から二六八万五七五円を引き出し、四口の支払金合計一五万七四三一円を差し引いた二五二万三一四四円を手持ち現金として着服し、この中から八五万円を同月一〇日ころ戊原銀行大牟田支店の被告人名義の普通預金口座に預金し、同月ころ、岩田屋か井筒屋で開催された質流れバーゲンでカシミヤの半コート(五〇万円位)、スーツ等の衣類(五〇万円位)を購入した旨供述していること(被告人の警察官調書〔原審検八六〕)、客観的証拠によれば、同月九日に戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から二六八万五七五円が引き出されていること(証拠品及び資料の複写に関する報告書〔原審検六〇〕)、同月一〇日に戊原銀行大牟田支店の被告人名義の口座に二口に分けて合計八五万円が入金されていること(捜査関係事項照会回答書〔原審検七六〕)等が認められ、被告人の右供述の信用性を裏付けていること、右二六八万五七五円の払戻請求書の筆跡につき、原審証人O子は自分の筆跡ではない旨証言し、被告人は原審公判廷において右払戻請求書中の口座番号欄及び日付欄の筆跡は自分の筆跡であることを認め、金額欄も自分の筆跡に似ている旨供述していること等の事実が認められ、これらによれば、被告人が平成三年一二月九日ころに戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から二六八万五七五円を払戻す手続を行なったものと優に認められ、支払金合計一五万七四三一円を差し引いた金員を手元に置き、いつでもほしいままに使用できる状態においた時点で不法領得の意思の発現があったものといえ,着服横領したものと解される。そうすると、被告人が、平成三年一二月九日ころに、戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から二六八万五七五円の払い戻しを受け、業務上預かり保管中、預り金のうち二五二万円を自己の用途にあてるために着服横領したことが優に認められる。
6 別紙犯罪一覧表(一)の番号9(平成三年一二月一二日ころの一九万円)について
 
所論は、平成三年一二月一二日ころに戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から引き出された二四万六六六八円について、被告人の引出し行為自体を否定し、業務上横領行為を行っていないと主張する。 
 
しかしながら、関係各証拠によれば、被告人は、捜査段階において、平成三年一二月一二日ころに戊原銀行津福支店の乙山建設の普通預金口座から二四万六六六八円を引き出し、会社の関係で四万九四〇〇円を支払い、その残額一九万七二六八円を着服して手持ち現金とした旨供述していること(被告人の警察官調書〔原審検八六〕)、客観的証拠によれば、同日に戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から二四万六六六八円が引き出されていること(証拠品及び資料の複写に関する報告書〔原審検六〇〕。なお、同日の仕訳日計表〔証拠品の謄本作成に関する報告書【原審検五九】〕には、四万九四〇〇円の金額しか記載されていないが、右日計表右上の係員の印によればこれを記載したのはO子であると思われるが、実際に引き出された金額よりも少ない金額をO子が故意に記載することは考えられず、被告人の指示に基づいて記載したものと認められる。)が認められ、被告人の右供述の信用性を裏付けていること、右二四万六六六八円の払戻請求書の筆跡について、原審証人O子は自分の筆跡ではない旨証言し、被告人は原審公判廷において自己の筆跡であることを認めていること等の事実が認められ、これらによれば、被告人が同日ころに戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から二四万六六六八円を引き出し、会社の関係で四万九四〇〇円を支払った残金を手許に保管した事実を優に認めることができ、右手許に保管した時点で着服横領したものと解するのが相当である。そうすると、被告人が、平成三年一二月一二日ころに、戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から二四万六六六八円の払い戻しを受け、業務上預かり保管中、右預り金のうち一九万円を自己の用途にあてるために着服横領したことが優に認められる。
7 別紙犯罪一覧表(一)の番号20(平成四年六月五日ころの一二〇万円)について
 
所論は、平成四年六月五日ころに戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から引き出された一二〇万円について、被告人による引出し自体を否定し、業務上横領行為をしていないと主張する。
 
しかしながら、関係各証拠によれば、被告人は、捜査段階において、平成四年六月五日ころに戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から一二〇万円を引き出し、同日ころに戊原銀行大牟田支店の被告人名義の普通預金口座に四五万円、戊原銀行津福支店のR名義の普通預金口座に五万円それぞれ預金し、残りの七〇万円は手持ち現金とした旨供述していること(被告人の警察官調書〔原審検八六〕)、客観的証拠によれば、同日に戊原銀行津福支店の乙山建設の普通預金口座から一二〇万円が引出されていること(証拠品及び資料の複写に関する報告書〔原審検六〇〕)、同日、戊原銀行大牟田支店の被告人名義の普通預金口座に四五万円が入金され(捜査関係事項照会回答書〔原審検七六〕)、更に戊原銀行津福支店のR名義の普通預金口座に五万円入金されていること(捜査関係事項照会回答書〔原審検七二〕)等の事実が認められ、被告人の右供述の信用性を裏付けていること、右一二〇万円の払戻請求書の筆跡について、原審証人O子は自分の筆跡ではない旨証言し、被告人は原審公判廷において右払戻請求書の口座番号欄は自己の筆跡のようであり、金額も「2」の文字が自分の筆跡によく似ている旨供述していること、同日の二枚にわたって記載された仕訳日計表(証拠品の謄本作成に関する報告書〔原審検五九〕、この二枚の仕訳日計表のうち一枚にはO子の印が、もう一枚にはO子及び被告人の印が押されている。)には右預金引き出しの記載がないが、実際に預金が引き出されているにもかかわらず仕訳日計表に記載されていないということは、預金を引き出した者が着服したものとしか考えられないこと等の事実が認められ、これらによれば、被告人が同日ころに戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から一二〇万円を払戻す手続を行ない、そのうち五〇万円を被告人又はその家族名義で預金し残金を手許に保管していた事実を優に認めることができ、前同様右預金ないし手許に保管した時点で着服横領したものと解するのが相当である。そうすると、被告人が、平成四年六月五日ころに、戊原銀行津福支店の乙山建設工業の普通預金口座から一二〇万円の払い戻しを受け、業務上預かり保管中、右預り金を自己の用途にあてるために着服横領したことが優に認められる。
三 被告人の弁解する不明金について
 
所論は、被告人が原判決別紙犯罪一覧表(一)の番号2、6、7、10、11ないし19、21、22、同表(二)の番号1ないし6について、その業務上横領した事実自体は認めながら、その数額について争い、実質的に被告人が横領したのは合計で五八〇万円程度にすぎず、原判決が認定する業務上横領金額一〇六九万円余との差額は乙山建設工業の裏金として会社の為に使われた旨主張し、被告人は、原審公判廷において、M社長に命じられたI部長の指示で、業者や議員に渡す帳簿上記載できない乙山建設工業の裏金を、自分が現金で所持したり、被告人あるいは被告人の家族名義の預金口座に入れるなどして管理し、会社(乙山建設工業)が裏金が必要になった都度I部長らに渡していたし、E常務から社長に言わずに払ってくれと言われて伝票に記載せずに被告人の手持金あるいは被告人名義の口座から金を出して渡したこともある旨弁解し、被告人が捜査段階で作成した一覧表は、先に警察がワープロで作った表があってこれを書き写しただけであって全く信用性がないものであるなどと弁解している。
 
しかしながら、会社事務所に三万円以上の現金を保管することを禁止されているにもかかわらず、被告人が自己のバッグ、ロッカー、自宅等に数百万円もの会社の金員を保管すること自体極めて不自然である上、これを被告人個人やその家族名義の預金口座に預金したり、生命保険に加入することによって会社の金員を保管していたということ自体極めて不自然かつ不合理であるといわざるを得ない。更に、原審証人I、同E、同Mの各証言によれば、乙山建設工業においては、帳簿に営業活動に伴う正確な名目を記載しにくい支出については仮払い金、未完成工事支出金、交際費等の名目で記載して処理し、その支出についてはM社長の決済を受けていることが認められ、いずれの証人も裏金の存在を否定していること等にかんがみると、被告人の右弁解は到底信用できない。
四 以上によれば、原判示一の事実のうち別紙犯罪事実一覧表(一)の番号2の業務上横領額は一三万二一〇〇円の限度であり、この点について原判決は事実を誤認したものといわざるを得ないが、その余の原判決認定の各業務上横領行為(ただし、当審において訴因変更により公訴事実から除かれた別紙犯罪事実一覧表(一)の番号15、17を除く)はいずれも認めることができ、これらは全体が包括一罪と認められ、右事実誤認及び訴因縮少分にかかる業務上横領額の合計金額は一九万五九九一円にすぎず、これは原判決が認定した横領金額全体(一七九三万八八九五円)の約一パーセント強に相当する程度であることにかんがみると、右事実誤認は判決に影響を及ぼすものとは認められず、論旨は理由がない。
第三 破棄自判
 
以上の次第で、検察官の量刑不当の主張に関する判断をするまでもなく、原判決中無罪部分である非現住建造物等放火の公訴事実に関する部分は、事実を誤認し判決に影響を及ぼすことが明らかであるから破棄を免れず、右非現住建造物等放火罪と原判示の業務上横領罪は併合罪として一個の刑を科することになるから、結局、原判決は全体について破棄を免れず、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書により、当審において変更された訴因に基づき、当裁判所において更に次のとおり判決する。
(原判決が認定した業務上横領の事実〔ただし、前記のように事実誤認ないし訴因縮少がある部分について、原判示一の二行目の「前後二二回」を「前後二〇回」に、同八行目の「合計約一六三二万二九五五円」を「合計約一六一二万六九六四円」に、別紙犯罪一覧表(一)の番号2の横領金額欄の「二〇万八〇九一円」を「一三万二一〇〇円」に、同表(一)の最終行の「合計約一六三二万二九五五円」を「合計約一六一二万六九六四円」にそれぞれ訂正し、同表(一)の番号15及び17の各欄全部を削除する。なお、原判示三の二行目の「不動産賃貸料」は「不動産賃貸料等」の誤記と、同表(二)の番号5の預金払戻し年月日欄の「平成四年一月二五日」は「平成四年一月二四日」の誤記と認める。〕に加えて、当裁判所において新たに認定した罪となるべき事実)
 
被告人は、福岡県久留米市《番地略》所在の甲野ビルに事務所を置く乙山建設工業株式会社に昭和六〇年ころから経理事務員として勤務していたものであるが、同会社が平成四年五月一一日に所轄税務署による税務調査を受けることになったことから、右調査が行われたら自己の業務上横領の事実が発覚するものと危惧し、これを防ぐため右甲野ビルに火事騒ぎを起こし右調査を延期させようと考え、同会社が所有する右甲野ビル(六階建、鉄筋コンクリート造り)一階に所在し、かねてからその経営者の妻に嫌悪感を抱いていた理髪店「丙川」(A管理、床面積約六八・六七平方メートル)に放火してこれを焼損しようと決意し、右同日午前三時ころ、同店内において、床上に灯油をしみこませた毛布を置いた上、これに点火した新聞紙を落として火を放ち、右毛布から床等に燃え移らせ、よって、同会社所有の人の現在しない右店舗の床の一部等を焼損した。
(新たに認定した事実に関する証拠の標目)《略》
(法令の適用)
 
原判決が認定した業務上横領の行為(ただし、事実誤認のある部分を前記のとおり訂正し、原判示一の別紙犯罪一覧表(一)の番号15及び17の各欄を削除する。)は包括して平成七年法律第九一号附則二条一項本文により同法による改正前の刑法(以下、いずれも改正前の刑法を指す。)二五三条に、当裁判所が新たに認定した非現住建造物等放火の行為は刑法一〇九条一項に、それぞれ該当するところ、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により、重い非現住建造物等放火の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役三年六月に処し、同法二一条を適用して原審における未決勾留日数中三五〇日を右刑に算入し、原審及び当審における訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文により全部これを被告人に負担させることとする。
(量刑の理由)
 
本件は、被告人が、勤務会社から信頼され同会社の経理事務をほぼ全面的に任されていたことを奇貨として、約九か月間にわたり継続的かつ常習的に勤務会社の金銭を着服横領した業務上横領、及び、勤務会社が近日中に税務調査を受けることになったことから、右調査が行われると自己の業務上横領の事実が発覚するのではないかと危惧し、これを妨げるため勤務会社の所在するビルに火事騒ぎを起こし税務調査を延期させようと考え、右ビル一階の理髪店に放火したという非現住建造物等放火の事案である。まず、業務上横領の事案についてみるに、被告人は、昭和六三年ころ、勤務会社の慰安旅行で生じた不足金を会社の銀行預金口座から勝手に金銭を引き出して穴埋めしたところこれが誰にも気付かれずに済んだことに味をしめ、以後、本件で逮捕されるまで、自分や家族名義の銀行口座に預金したり財形貯蓄保険や生命保険の保険料に支払ったり飲食代等にあてるため、勤務会社の金銭を連続的に着服横領してきたものであって、動機において酌量の余地に乏しく、その犯行態様も、勤務会社の経理事務のほとんどを任されていたことに乗じて、会社が必要とする金額以上の金銭を同会社の銀行預金口座から引き出したり、会社の支払いとは無関係に勤務会社の銀行預金口座から勝手に現金を引き下ろしたり、また、勤務会社に入金された金銭の一部又は全部を同会社に納金せずに着服したという大胆かつ悪質なものであって、その合計額も一七〇〇万円を超える多額なもので、民事訴訟の結果和解が成立した現在においても、多額の使途不明金の一部しか回収できなかった被害会社側の被害感情には厳しいものがある。次に、非現住建造物等放火の事案についてみるに、その動機は、前記のとおり、自己の業務上横領の発覚をおそれ、勤務会社に対する税務調査をなんとか延期させようとして同会社の所在するビルの一階の理髪店に放火したという甚だ身勝手なものであり、酌量の余地のないものである。放火された理髪店は、本件火災により二〇〇〇万円を超える損害を被ったが、被告人は放火したのは自分ではないと称して現在まで何ら被害弁償の措置を講じていない。また、被告人が放火したビルは、市街地の中にあり、その三階以上はマンションで多数の住民が居住しており、本件放火行為によりビルや周囲の住民に与えた不安感には無視できないものがある。更に、被告人は、捜査及び公判段階を通じ、非現住建造物等放火及び業務上横領の双方について種々の不自然かつ不合理な弁解をして争い、真摯に反省しているとは到底認められない。そうすると、他方において、業務上横領の事案については、勤務会社の経理監督体制に不十分な点があり、これが本件犯行を容易にした一因でもあること、原判決後の平成八年七月四日に、民事訴訟において、被告人の元夫のRと連帯して勤務会社に対し三〇〇〇万円の損害賠償義務を認め、内金七二一万四一九五円を直ちに支払い、以後平成八年八月から平成一八年七月まで毎月一〇万円を支払えばその余を免除するという内容の和解を成立させ、現在まで履行しているなど、それなりに反省の態度を示していること、非現住建造物等放火の事案については、本件が十分な準備や計画に基づいて行われたものではなく、むしろ突発的、衝動的に行われたものであること、ビルの構造上、他の部屋への延焼の可能性は低かったこと、被告人には昭和五〇年に業務上過失傷害罪で罰金刑に処せられた以外には前科前歴がないこと、その他被告人の家庭事情等、被告人のために酌むことのできる諸事情も認められるが、これらを併せ考慮しても、被告人の刑事責任は重く、主文掲記の実刑に処するのはやむを得ない。

 よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 神作良二 裁判官 岸和田羊一 古川龍一)

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